楽亭県の影絵芝居は、俗に「楽亭影」と称され、影絵芝居の発祥地の一つとして、1997年に中国文化部から「皮影之郷」と命名された。楽亭県は金代から清代初め(1123-1735)までの600余年の間、「 州」に属していたことから「 州影」と、最近では唐山地区に属していたことから「唐山皮影」とも呼ばれている。また、人形などにロバの皮が使用されていることから「驢皮影」とも称される。北宋に侵略した金王朝の統治下では、影絵芝居の芸人は北方に連れ去られ、河北省一帯に落ち着いたが、楽亭県の影絵芝居もこのことに由来している。金・元代には、河北は南北交戦の主戦場となり、兵馬が踏み荒らしただけでなく、イナゴ・旱魃・水害などの自然災害に見舞われ苦しい日々が続いた。明の世祖の時代になると、都は北京に遷都し、河北は「京畿之地」となり、瞬く間に経済力をつけ、大規模な荒地の開墾がされ、江南の富庶の戸が 州一帯に移り、「屯」を打ち建てた。当時の富戸は、家ごとに「養戯班」(劇団をかかえる)の習俗があり、南方の戯劇を引き連れて移ってきたという。このことが、当地の影絵芝居を発展させる重要な契機となった。1958年に、明の万暦7年のものと伝えられる書写本「薄命図」「六月雪」が発見された。「薄命図」は一般には6宿(6晩?)で演じられるもので、張彦とその妻白玉楼の物語りで、登場人物は少ないが、生・旦・髯(老生)・ ・丑が含まれ、現在のものとほぼ一致している。また、楽亭影の基本的な格律(三三、四四、五五、六六、七七となる形式)が大量に使用されている。具体的には次のようである。 |