おわりに                         速水

 

 このプロジェクトが始まったとき、これでもう研究費を心配することなく、研究に没頭できる、と確信した。いま、プロエクトを閉じるにあたって、そのことは半分は事実だったが、半分は楽観的すぎた、と思っている。一つには、プロジェクトで実施する作業が、研究が進むほど増え、深く、広くなったからである。最初の研究計画が甘かったのではないかとも思うが、たとえば従来史料のほとんどなかったところから、良質で大量の史料が「発見」されたとき、プロジェクトの全力は、この史料のマイクロ・フィルム撮影、ワーク・シート作成、コンピュータ入力に注がれる。一年の人口約3000、100年間続いた史料には、300,000人年の記録があることになる。

 しかも、そのような事例は一箇所だけではなかった。こういった場合、単に労力や時間を投入すれば済むというものではない。出てきた観察結果によって、当初考えていた研究上の作業仮説を変えなければならない場合も出てくる。最も端的には、筆者は当初、日本のdemo-family pattern として、東北日本と西南(中央を含む)日本の二つを考えていた。ところが、西南日本の事例は、中央日本とは異なるパターンの存在を見せつけてくれた。

 もう一つ例をあげれば、従来筆者は、都市人口の基本性格について、低出生率と高死亡率で特徴づけられる「都市墓場説(筆者自身の命名では「都市蟻地獄説」)で片付けてきた。しかし、地方都市では、死亡率は決して出生率を上回っていないし、大都市でも、出生率と死亡率だけを見れば済むものではないことも明らかになった。こうなると、当初考えていた枠組みは根本的に再構築されなければならない。

 国際比較研究においても、その任に当たった者は、国外研究者の早い研究、および研究発表のペースについて行くのは容易ではなかった。一年に数回の研究発表を、英文で行うためには、国内における研究のための時間を犠牲にせざるを得ない局面にもしばしば立たされた。しかし、こういった「しごき」を越えて、われわれの研究は国際水準に到達し得た、と考えている。

 このようなわけで、当初抱いた考えが、いかに甘いものであったかを思い知らされた。筆者個人としては、このような大型プロジェクトの研究代表者となるには、いささか非力であったし、指導力不足を嘆じざるをえない。しかし、参加者全員の全力を傾けた研究結果については、一方では謙虚に批判を受けるとしても、他方では、胸をはって堂々と知見を主張できるし、議論を展開する用意がある。

 数十人からなる研究グループを統括することは容易ではない。このプロジェクトの国内構成メムバーは、比較的若い研究者が多かったが、それぞれがすでに discipline を持ち、研究成果を発表している。プロジェクト内での研究上の論争も多くあったが、一つのプロジェクトのまとまりを破壊してしまうことだけは避けねばならなかった。というわけで、中には徹底的な論争を欲する方もいたかもしれないが、研究代表者としては、soft landing を選んだのである。