4.1
総論 溝口 常俊
4.1.3
都道府県別「日本人口アトラス」の作成
木下 太志
4.2
明治府県統計書
速水 融
EAPプロジェクトの人口・家族に関する主要分析は1村レベルの極めてミクロな世界を対象としたものである。それゆえに地域比較をする際に、対象とした村が果してその地域(上位の階層地域、東北であり、日本である)の代表としていいのかという問題がたえず問われる。日本全村に宗門改帳が残り、それらが全て整理分析されていればよいが、実際にはそうはいかない。
その点を補う方法として二つ考えられる。一つは、年度は単年に限られるが数十カ村以上の広域にまとまって残存している宗門改帳や人別改帳を利用する方向で、例えば茨城県、東京都、長野県、三重県などの農村部1)、あるいは都市においては、岡山県津山城下町が対象地域としてあげられる。他の一つは、近世においては地誌、明治に入っては郡村史・皇国地誌の他に共武政表、府県統計書などの統計書類の活用である。
EAPの研究班として設定された「マクロ統計班」は、その実働的なワーキンググループとして、東西地域差を象徴する名称である「フォッサマグナ班」を立ち上げ、上記の二方法を念頭に置きつつ、資料収集、整理、分析をおこなった。その際、プレゼンテーションの手段として地図化をこころがけ、地域性の実体とその妙味の理解に努めた。
以下、マクロ統計の紹介とともに、その分析の意義を主張されてきた速水の成果を第1に述べ、続いて大正9年以降の国勢調査結果を府県別にデータ整理した木下太志からよせたれた原稿を掲載し、最後に両名のマクロ分析と多数のメンバーのミクロ分析を繋ぐことを意図した、スケールの面では中間的なセミ・マクロな分析を手がけてきた溝口の研究結果を示したい。
近代的な統計が出現する以前の人口統計について、その略史を速水(1992)「国勢調査以前 日本人口統計修正:解題」をメモしつつ、振り返ってみよう2)。
人口統計の近代化過程は、戸籍編成から国勢調査へと進む道であるという。
1)江戸時代の全国人口調査
江戸幕府による国別人口調査:享保6年(1721)に始まり、弘化3年(1846)に終る。欠点として、幕府の調査には武士人口は含まれていないこと、幼少年齢者の記載が不十分なこと:金沢藩(15歳以下の人口は含まれていない)、和歌山藩(8歳未満の人口はカウントされていない)対馬藩も過少報告、などである。
2)維新政府の成立と人口調査の開始
明治政府は、成立当時から、異常と思われるほど熱心に、諸統計の編纂を進めている。我々はその使用にあたり、統計数字を利用する前処理として、その書誌情報をなるべく詳細に求める必要がある。関連する法齢、表題や内容の規定、例外規定はもちろん、統計表自身に付された正誤表に至るまで眼を通すべきである。幸い、一橋大学経済研究所:細谷新治「富国強兵論」、(『明治前期日本経済統計解題書誌』所収)、総理府統計局『総理府統計局百年史資料集成』の解題が優れており参考になる。
弘化3年(1846)から明治5年(1872)[壬申戸籍]の間は、全国人口統計史上「空白の四半世紀」である。また、明治の戸籍は、江戸時代長州藩で実施されていた「戸籍」(とじゃく)をプロトタイプしたものであった。
「日本全国戸口表」(明治5年)に始まる諸統計は、戸籍(登録者が法的行為をする際の証明)を基準とし、市町村役場で移動や寄留を加減した人口数をとっている。
3)明治初期の諸調査
弘化3年:2690万人→明治5年:3311万人(実際は3480万人と修正されたが23%多い)。
内務省戸籍局による過渡的な明治12年1月1日調べの『日本全国郡区分人口表』を経て、明治13年1月1日調べの『日本全国人口表』に至ると、郡・区の総数は本州、四国、九州で721、北海道で90、小笠原島で2、総計813(沖縄県は琉球処分後県として一括され、翌14年の人口表からは「間切」に細分されている)の行政単位毎に、人口の性別、族籍別、戸主・家族別、年齢段階別といった静態統計、出生、死亡、棄児、除籍といった動態統計が掲載されるようになった。これは当時の本籍人口であるが、未だ本格的工業化・都市化の始る以前であることを考慮するならば、その人口数は、実際に近いものと考えることができるだろう。府県単位や国単位ではきめが荒すぎるが、単位が800以上もある郡区であるがゆえに、見事なまでの地域的差異を描くことができた。
明治19年12月31日調べのもの(「日本帝国民籍戸口表」)に限って、府県別に各歳毎に、しかも有配偶、無配偶の別が記載され、年齢別の詳細、年齢別有配偶率が直接記録され、そこから、平均結婚年齢の推計も出来る。江戸時代末期に起った異常な低出生率、異常な高乳児死亡率の爪痕(文久元年のコレラの流行の状況、弘化3年の丙午年の出生数の減少)も残されている。
明治17年12月31日調の『都府名邑戸口表』(内務省地理局編)は1年限りの統計であるが、全国で927の当時都市と考えられていた行政単位について、その本籍戸数と人口、出寄留戸数と人口、入寄留戸数と人口、差引現在戸数と人口を掲げている。明治17年という、本格的な工業化、都市化直前の日本の都市人口分布について貴重な情報を与えてくれる。とくに、寄留人口を出寄留、入寄留別に記し、現在人口を求めているので、その都市が、人口を吸引していたのか否かについて明らかにしてくれる点、他の統計からは求めることが出来ないので、非常に貴重である。一般に都市人口は、明治8年に始る『共武政表』およびその継承である『徴発物件一覧表』といった軍部の編纂した資料による場合が多かった。しかし、それらの資料の人口数は、もちろん内務省戸籍局の調査数字をそのまま使っており、またそこに掲載されている都市の内容が、府県によって一定していない、という弱点がある。やや年代は遅れるが、この『都府名邑戸口表』の持つ内容は、はるかに優れており、都市史研究において、必須の材料となる。
4)人口統計の整備と国勢調査
杉亨二:国勢調査の必要を説く。明治12年12月31日「甲斐国現在人別調」刊行:年齢も各歳ごと、配偶の有無、夫婦の年齢差、出生地、家族員を含む詳細な職業別人員などからなる完全な国勢調査である。明治14年の政変(渋沢栄一、大隈重信らは、薩長閥が要所をおさめる政府を去り、野に下る。松方正義の緊縮財政政策の開始。杉の処点であった統計局も廃止、杉は官を辞す)によって、国勢調査実施の最初の機会は失われた。
5)多彩な人口統計群像
国勢調査以前の統計を国勢調査の結果と比較して、信頼度を云々することは何の意味もない。むしろ、われわれに課された課題は、これらの貴重な統計資料を、その性格を考慮しつつ、いかに積極的に活用してゆくか、であろう。
明治前期の統計を取り扱う際、頭痛の種になるのは、転々とする行政区画の変化である。これが一応落着くのは、明治22年の地方制度の確立をもってであるが、その後ですら、現在東京都の西部、多摩地方は、明治24年3月まで神奈川県であった。詳細を記した内閣統計局編『府県及北海道境域沿革一覧』、明治43年が最近復刻され(『明治大正日本国勢沿革資料総覧 第四巻』1983、柏書房)ている。
圧巻は、明治24年の『徴発物件一覧表』で、大体江戸時代の村に相当する当時の大字単位で、人口、戸数のほか、建物面積、郵便局・寺院・官庁・工場・水車・学校・病院などが記載されている。
以上、速水の言葉をメモしたが、国勢調査以前の前近代的統計とはいえ、その質・量の豊富さに驚かされるが、それ以上にそれらが未だ十分に活用されていない点に驚く。その中で速水は早くも、明治前期統計を使って、有配偶率と平均結婚年齢の府県別差異を全国的視野から俯瞰し、東西の地域差を見事に図示した。「もうひとつのフォッサマグナ」が誕生した3)。
1)江戸時代における結婚年齢の全国的観察
速水らの宗門改帳を使っての分析事例を、速水論文の抜書きでまず見てみよう。
@諏訪郡横内村:女子の平均初婚年齢:18世紀初期数え17歳→19世紀半ば22歳。妻の17世紀後半出生コーホートでは1組の完全家族(50歳まで結婚が継続した夫婦)における平均子供数は6.4人→19世紀1四半世紀のコーホートでは3.8人と減じている。
A美濃国安八郡西条村:1773―1835コーホートによると、女子の平均初婚年齢は、上層21.6歳、下層24.7歳。出稼ぎの有無。上層11歳に達した女子の内33%、下層は74%経験。出稼ぎ経験者は平均して12歳で出て、12年間都市や他の農村で働き、24歳で戻ってくる。上層農民の家族では、継承者がいないために家系が絶えてしまう例は観察期間中一つもないが、下層農民の家族では、戸主が死亡した場合、35%もが家系が絶えた。
B東北地方:成松佐恵子『近世東北農村の人々』ミネルヴァ書房、1985、pp.83−84:18世紀以来顕著な人口減少に見舞われた。予想に反して、女子の平均初婚年齢は、驚くべきほど低い。18世紀の初めには11.2歳という低さ、19世紀の半ばには18.7歳になってはいるが、なお低い。
2)明治時代における結婚年齢と有配偶率の地域差
明治5年(1872)、政府は新しい戸籍制度を確立し、その時点で各行政単位に長期に亘って住む人々をその単位ごとに登録し、「戸籍」を作成した。その後、結婚や引越しによって移動する場合、この戸籍簿に加除を行い、「本籍人口」の確定を行っている。問題となるのは、「寄留人口」と呼ばれた一時的な移動の処理である。法律上は、本籍地を90日以上離れて移動する場合、「寄留」の手続をし、各行政単位では、この「寄留人口」を「本籍人口」に加除して「現在人口」を机の上で算定した。(末端の非統一的解釈が多く、重複や脱漏、都市部でひどい)だが、本格的な工業化・都市化が始る以前は寄留人口が少なく、政府の行った「本籍人口」調査は信頼性も高かったと考えられる。
明治19年『日本帝国民籍戸口表』府県別に各歳ごとの人口、その有配偶を記録している。
有配偶率は、男78.8%(44歳)、女79.4%(37歳)がピ−クであった。結婚年齢の分布は、男子23歳、女子20歳にピークがあった。江戸時代では、再婚は35歳をこえると急速に減少する。よって35歳までに結婚したものを取出して分析算出すると、平均結婚年齢男子25.7歳、女子22.4歳となる。
『日本帝国民籍戸口表』の数値で、男子28歳、女子23歳における有配偶率を府県別に示す。最高値と最低値には、30ポイント前後の差がある。有配偶率から推定した平均結婚年齢を図示すると、結婚年齢に関して、境界を富山−長野−静岡とする早婚の東日本型と、晩婚の西日本型の二つのパターンを検出しえた。
東西の代表として和歌山県と岩手県をとる。有配偶率の線は男女とも40歳前後で逆転するが、男女とも両県では明瞭な差がある。20歳における女子の有配偶率(岩手70%、和歌山35%)、25歳における男子(岩手50%、和歌山25%)と2倍もの差になる。
一方、都市と農村の代表として、東京府と福島、佐賀(東京の平均結婚年齢は佐賀県よりも低いが、東京の独身率が両県よりも高い)をとる。
このような事例を通して、19世紀末の日本について、平均結婚年齢や、年齢別有配偶率に関し、全国平均値で語ることが、いかに非現実であり、それぞれの地域ごとに、観察を詳細に進めていかなければならないという教訓を得た。
速水が作成した人口を主とする明治前期の数例をサンプルとして以下に示す。
1) 図1 明治14年郡区別世帯規模
資料:明治14年日本全国人口表(内務省戸籍局)
特徴:東北日本で高く、中央日本で低く、西南日本ではやや高い。
2) 図2 明治14年郡区別女子戸主率
資料:明治14年日本全国人口表(内務省戸籍局)
特徴:北海道、中央日本で高い。女子の社会的・経済的地位を反映か。
3)
図3 明治19年府県別男子推定結婚年齢
資料:明治19年12月31日調 日本帝国民籍戸口表(内務省総務局
戸籍課)
特徴:北海道および静岡、富山両県を結ぶ線(フォッサマグナ)以西
では高い。
4) 図4 明治19年府県別女子推定結婚年齢
資料:明治19年12月31日調 日本帝国民籍戸口表(内務省総務局
戸籍課)
特徴:北海道および静岡、富山両県を結ぶ線(フォッサマグナ)以西
では高い。
EAPプロジェクトの目的は、徳川時代の宗門改帳の詳細な分析を通して、近代化以前の日本人の人口学的特徴を明らかにすることである。宗門改帳は村や町などの当時の行政単位毎に世帯やそれを構成する個人を記録し、そこから住民の生活を克明に知ることができるのが強みである。一方、宗門改帳の弱点は、その分析には多くの時間と労働力をようするということと、この記録は日本列島のどこでも発見されるものではないということである。これらの弱点(特に後者の)により、折角ある村の人口学的特徴を詳細に研究しても、日本全体をみた場合、それがどこに位置するのかが正確にはわからないというのが問題である。ある意味では、これは宗門人別改帳を利用した研究の宿命ともいうことができるが、日本研究において、本プロジェクトの成果をより意味あるものにするため、日本国内の地域性を把握しておくことは必要不可欠である。
本プロジェクトには、当初からフォッサマグナ班というグループが設立され、そこでは日本国内における人口学的特徴の地域差を中心に研究を進めてきた。まず、フォッサマグナ班は、(1)人口指標を地図化する、(2)明治期以降の人口統計を利用するという、2つの基本的な方針を決め作業を開始した。前者の方針については、人口統計を数字の羅列ではなく、誰にもわかりやすい形で提供できるというのが最大の利点である。人口指標が地図化された出版物も全くないわけではないが、それらはある時期の特定の人口指標のみを扱った非常に用途が限定されたものか、あるいはごく最近のものにしか過ぎない。最近の出版物にしても、研究者が必要とするすべての人口指標が地図化されているわけではない。このような現状から、体系的な日本人口アトラスを作るという発想が生まれた。後者の方針は、地図化に必要な人口統計の有無という現実的な問題から生まれたものである。すなわち、日本全国にわたって、信頼性の高い人口統計が整備されたのは明治以降のことであり、このような人口統計は徳川時代には存在しない。とくに1920年には、日本で初めて国勢調査が実施され、これ以降5年毎に(終戦の1945年を除く)正確な人口数(population at
risk)とそれに基づく人口諸指標を把握できる。
フォッサマグナ班は、速水融、黒須里美、溝口常俊、木下太志の4名から構成され、速水と黒須が明治期から大正期にかけての郡区(後の市)を対象とした人口指標の地図化を担当する一方、溝口と木下は明治期から現在までの都道府県を単位とした人口アトラスの作成を担当した。後者の人口アトラスについては、木下がデータ入力・クリーニングと人口指標の計算を担当し、溝口がそれを地図化した。また、フォッサマグナ班の日本人口アトラス作成には、名古屋大学大学院文学研究科地理学専攻の谷謙二が作成した「マンダラ」とよばれるプログラムを利用した。
溝口と木下が担当した都道府県単位の人口アトラスに地図化された人口指標は、(1)人口全般に関するもの、(2)出生に関するもの、(3)結婚に関するもの、(4)死亡に関するもの、(5)世帯に関するもの、という5種類に大別することができる。各々の具体的な人口指標は、次の通りである。
(1)人口全般に関する指標
@普通出生率(人口千人当りの出生数):図5(1920)、図6(1925)、図7(1930)、図8(1940)、図9(1950)、図10(1960)、図11(1970)、図12(1975)、図13(1980)、図14(1990)
この70年間の変化は、各年5段階区分の最高境界値が1920年の44‰から順次減っており、31‰(1950)をへて、1990年には12‰にまで少子化が進んでいる。各年次ごとに空間的分布状況をみてみると、1920年にはほぼフォサマグナライン(正確には福井−三重ライン)を境に東日本に高く、西日本に低いという地域差がはっきりとみられる。この傾向は1940年まで変らないが、40年になって南九州が東日本と同様に高くなってきており、1950年になってさらにその傾向が強くなってきている。その一方、この10年間に中央日本の低率化が進んだのが目に付く。60年まではその傾向が続くが、劇的な変化を遂げるのが60−70年の変化である。東西日本の差異という構造は完全になくなり、東京、大阪、名古屋という3大都市圏に高く、その他で低いという差異が明瞭に出ている。終戦直後の第1次ベビーブームに出生した世代が高度経済成長期に大都市に流れ、そこでマイホームを持った結果である。この時代は農村側にしてみれば若者が流出した過疎の時代であり、60年に最高値をもった東北、南九州が、70年には一挙に15‰以下という最低値を記録するまでに変化した激変の時期であった。ところが75年までその傾向が保たれるが、80年になるとUターン化が進んだのか東西差、都市農村差というどちらの差も無くなり、ほとんどの県が14−15‰に落着いた。その後90年までに全県においてさらに少子化が進んでいったことがわかる。(図の説明は溝口)
A普通死亡率(人口千人当りの死亡数):図15(1925)、図16(19
75)
1925−75の50年間で普通死亡率の最高境界値が24‰から8.5‰に激減したことがまず特筆される。地域差においては、25年に石川、福井の北陸地方が最高死亡率を示していたのに対して、75年には西日本の島根、高知、鹿児島が高く、東京、大阪、愛知の大都市地域の死亡率が低くなっている。
B婚姻率(人口千人当りの婚姻数):図17(1925)、図18(1975)
1925年は東日本が高いが、中でも東北、中部の日本海側が顕著である。それが1975年には、3大都市および仙台、福岡といった中核都市で高くなっている。
C離婚率(人口千人当りの離婚数)図19(1925)、図20(1975)
1925年は東西日本の差というよりも、日本海側の諸県が太平洋側の県よりも高いのが目立つ。それが1975年になると北海道、高知、宮崎といった周辺諸県が高くなっている。
D人口増加率:図21(1920−25)、図22(1970−75)
1920年から25年では、福井県を除いて全県で増加し、中でも東京、大阪、愛知の大都市県での増加が目立つ。70−75年では、東京自身はほとんど増加が見られないのに対して、その周辺の諸県で激増するといったドーナツ化がみられた。大阪では自身も増えつつ、なおかつその周辺の奈良、滋賀県での増加が際だっていた。その反面、過疎化の影響をもろに受けた東北、山陰、四国、九州の諸県では停滞していた。
E自然増加率
(2)出生に関する指標
@出生性比
A合計特殊出生率(TFR):図23(1925)、図24(1975)
B合計婚姻特殊出生率(TFMR)
Cプリンストン指標総出生率(If)
Dプリンストン指標有配偶率(Im)
Eプリンストン指標有配偶出生率(Ig)
Fプリンストン指標非有配偶出生率(Ih)
Gコール・トラッセル指標M
Hコール・トラッセル指標m
(3)婚姻に関する指標
@SMAM(男女別):図25男(1925)、図26女(1975)、図27男(1
925)、図28女(1975)
いずれも中央日本で高い
A生涯未婚率(男女別):図29男(11925)、図30女(1975)、図3
1男(1925)、図32女(1975)
1925年は男女とも中央日本と南九州が高い。1975年になると東京
と大阪が高い。
(4)死亡に関する指標
@平均寿命(男女別):図33男(1925)、図34女(1975)、図35男(1925)、図36女(1975)
1925年は北陸と北東北が低い。高い県は、長野、和歌山、鳥取、鹿児島など飛び地的に存在する。1975年は東京が高い。
A乳児死亡率:図37(1925)、図38(1975)
普通死亡率がそうであったように、1925年から1975年の50年間に大幅に低下した。地域的には普通死亡率と同じように1925年時に北陸3県、北東北で高く、南九州で低かった。それが1975年には北東北は依然として高く、北陸は低くなる一方で、南九州では高くなった。
B新生児死亡率
C死産率
D5歳時の平均余命(男女別)
E10歳時の平均余命
F死因別死亡率(各年死亡率の高い死因のうち5種類から7種類、男女別)
Gアルファインデックス
(5)世帯に関する指標
@平均世帯規模:図39(1925)、図40(1975)
1925年、1975年とも東日本で大きく、西日本で小さいというフォッサマグナを境にした傾向が出ている。
基本的には、これらの人口指標は、popuration at
riskが正確に把握できる1920年以降(i,e.,国勢調査が開始されて以降)、5年ごとに1995年まで計算された。ただし、第二次世界大戦終結後の混乱のため、1945年には国勢調査が実施されなかったので、この年は除き、その代りに臨時国勢調査の行われた1947年のものを加えた。また、国勢調査を必要とせず、人口動態統計のみから計算される指標(例えば、乳児死亡率や新生児死亡率など)については、1900年より人口アトラスを作成した。表1は、人口指標とそれが地図化された年をまとめた。日本人口アトラスは、ある年の人口指標(例えば普通出生率)の最大値と最小値の間を等分して5ランクに分け、それぞれの色の濃淡をつけて地図化した。ただし、他県と比較した場合、戦前の沖縄県は統計の精度にやや問題があったため、対象から外した。この作業の結果、現在、約700枚の人口アトラスを完成させることができたが、そのうち代表的なものを章末に添付する。また人口アトラスに加えて、各々の人口指標の変遷を観察するため、時系列グラフも作成した。作成したグラフの一覧は表1に示した通りである。
わが国江戸期には諸国に、尾張における『寛文村々覚書』や『尾張徇行記』のような優れた地誌が編纂されている。しかし、それらを使用して、地域全体の空間秩序を明らかにしようとした試みは為されていないように思われる。ここで紹介するのは、両地誌の記載内容をもれなくデータベース化、統計化して地図化した1)「江戸期なごやアトラス−絵図・分布図からの創造−」4)、および抽象化・理論化した2)江戸期尾張の中心周辺構造5)である。さらに地誌を総合的に活用することにより、当時の村落世界を読み解く実験を行った3)隠岐の地誌『贈補隠州記』の分析6)である。
本章では、T自然と環境、U社会と経済、およびV文化と景観の3部構成にし、アトラス(地図帳)の題目にふさわしいように各頁に必ず図を入れるようにした。分布図を作るに当たって気を付けた点は、ベースマップの村境である。本来なら同時代の尾張志「郡図」の村境がそのまま使えればベストであるが、面積が正確でないので、採用せず、代わって明治17年(1884)の地籍図を参考にして引いた。戸口、石高の寛文〜文政期の150年にわたる変化、見取場の利用、新田の開発などの詳細をみることができ、馬と牛、板橋と土橋、杁と井、浄土真宗と禅宗などの対照的な分布も興味深い。また村人の距離感、あるいは地誌作成者の村評価、名所選定、あるいは『鸚鵡籠中記』記載の火事・自殺・心中といった当時の人々の認知、意識、行動についても地図化し考察を加えた。
ここでは戸口に関する結果のみを紹介しておきたい。
1)人口と戸数(1672)
『寛文村々覚書』に記載の現名古屋市域に属する村(151ヶ村、名古屋城下、熱田町、七女子村は除く)の1村当たり平均人口は522人。分布図からは東部丘陵地帯で少なく、西部平野部多い様子がうかがえる。ベスト5を示すと鳴海村の 3195人を筆頭に、以下、西大高村(2128人)、広井村(2060人)、笠寺村(1845人)、御器所村(1841人)と続き、東海道沿いの宿場町、門前町、および名古屋城下の町続き村で多い。戸数においても同様の傾向を示し、1村平均は93戸である。1位は鳴海村の342戸で、以下、広井(503戸)、名古屋村(457戸)、御器所(342戸)、西大高(322戸)、笠寺(293戸)となっている。 逆に、戸口共に最小規模なのは、平手新田(8戸、39人)、猪野越原新田(15戸、96人)であり、それに続いて中野外新田(16戸、 86人)、茶屋新田(18戸、89人)と新田村成立直後の村落基盤の脆弱さがうかがわれる。
2)人口と戸数(1822)
『寛文村々覚書』の時代(1672)以降に誕生した新田村29村が『尾張徇行記』に記載されており、総計160ヶ村になった。この平均戸口が136戸、589人で、これは戸数にして1村当たり43戸、人口は67人の増加である。 こうした背景のもと、人口規模順位をみると、1位が広井村の937戸、6943人で、以下、鳴海村(879戸、 3274人)、日置村(646戸、 3182人)、東福田新田(529戸、2504人)、西大高村(618戸、2359人)となり、笠寺などの旧村の相対的地位の低下に対して、日置に代表される城下西部の町続き地、および東福田など新田村の成長が特記される。
3)人口・戸数増加率
寛文12年(1672)から文政5年(1822)の150年間で1村当たりの平均人口・戸数はそれぞれ1.27倍、1.78倍へと増加した。分布図の上から、城下西部の町続き地(広井、日置など)、南西部新田村地域(東福田新田、茶屋新田、熱田新田など)に加えて東部丘陵地のかなりの村落(上・中志談味村、嶋田村、有松村など)で増加率が高い。これに対して人口減少した村が61ヶ村にものぼっていることは注目すべきで、そのうち北西部(栄村人口0.48、戸数0.52など)、西部の町続地外縁部(米野村人口0.62、戸数0.76など)を中心とした19ヶ村は戸数も減少している。
4)1戸当たり世帯員数
寛文12年(1672)の1村平均1戸当たりの世帯員数は 6.0人で、名古屋城下を中心にして城下から遠ざかるにつれて世帯員数は増大しており、東部丘陵地諸村において数値が高い。これが150年後の文政5年(1822)になると、平均4.2人と激減している。この間にいずれの村のどの世帯においても小家族化が進んでいったことは想像に難くない。そんな中で世帯員数が増加したのは、広井(4.1→7.4人)、押切(4.7→6.0人)、名古屋(2.8→5.5人)、堀越(4.7→4.9人)のわずか4ヶ村にすぎない。いずれも名古屋城下町続きの村で、『名古屋府城志』の広井村の説明に「今は農家衰へ、只匠人商人輓人脚人の業を以て生産とする者多し」。あるいは名古屋村の説明に「町通りとつづき小路小路には借家あり」とあり、非農業者が住み込み、あるいは借家の形で規模の大きい世帯が組み込まれた可能性があるように考えられる。
5)性比(1672)
江戸時代は男性人口が圧倒していた時代である。『寛文村々覚書』には男女数が載せられており、それによると名古屋の村々も、1村平均の性比(女性100に対する男性数)が114という高い値を示し、例外ではなかった。その分布に際立った特徴はないが、新田村においては例外無く、男性数が女性数を上回っている。開拓、干拓村の初期においては、男性が先に開墾に従事して入村する場合が多く、平手新田(1653年検地)、茶屋新田(1669年検地)はその最たるもので、性比はそれぞれ178.6、178.1であった。これに対して女性上位の第1、2位の村は、理由は定かではないが、中島村(71.8)、嶋田村(74.6)であった。
6)馬と牛
鎌倉時代後期、延慶3年(1310)の『国牛全図』に「馬は関東をもって先とし、牛は西国を以てもととす」とあり、馬と牛の地理的分布が明瞭になっていた。時代はさがって江戸、明治初期になっても、東日本の馬地域と西日本(南四国、南九州を除く)の牛地域とに二分されていた。
では、尾張はどうか。『寛文村々覚書』(1672)によると圧倒的に東日本的な馬文化圏に属していたことがわかる。その分布状の特色は、第1にすべての村で飼育されていたことがあげられ(1村平均20匹)、このことから農耕用に広く使用されていたことがわかる。特に新田村:熱田新田(51匹)、東福田新田(43匹)などで必要とされた。その一方で、運搬用に相当数利用されていた。東海道沿いの鳴海村(110匹)、佐屋街道沿いの岩塚村(45匹)などの宿場はもとより、その周辺の村々は助郷村として馬を飼育していた。また、多くの村で「年貢米 馬付」とあるように、年貢運搬用に使われていた。その他、特異なところで、城下近在の御器所村(83匹)は、城下への馬の供給地であったと思われるし、尾張四観音のある荒子村(75匹)は、「右観音へ毎歳五月十八日、近ン郷より馬ヲ出シ申シ候」とあるように、馬の集散地であった。
それが文政5年(1822)になると、1村平均馬数が4匹にまで激減し、かろうじて宿場と街道沿いの村で運搬用に残っている状況である。鳴海(61匹)、岩塚(27匹)に比較して熱田新田(18匹)、御器所(4匹)、荒子(6匹)、東福田(不明)の激減は著しい。
牛については寛文12年では鳴海(28匹)とその周辺の村々(相原:10匹)他わずか9ヶ村で飼育されていたにすぎず、文化5年に至っては牛は名古屋の諸村から全く姿を消してしまった。
現在の名古屋市域を対象にした前節アトラスの範囲を超えた尾張地域の全村を視野に入れてその地域構造を、特に大都市名古屋を中心とした地区から周辺に向うにつれて、如何に地域が変化していくかを、『寛文村々覚書』(1672)と『尾張徇行記』(1822)をもとに理論的に検討した。こうした作業をおこなって、地域の秩序を頭に入れておけば、ピンポイント的に対象とされた宗門改帳の残っている村が、その地域の中で如何なる位置にあるかをおおよそ押えておくことができる。
詳細は溝口(1999b)にゆずり、ここではその要点を示すに留めておきたい。そこでは、等質的な地域論に対して、結節的な地域論の重要性を指摘しつつも、後者の研究で従来とられてきた都市、村落の機能を考察する階層的な地域論とは視点を変え、面的な広がりを持つ地域全体の中で村落(ここでは藩政村)という基礎単位が、如何に性格を変えて分布しているか、という空間秩序を明らかにすることを目的とした。フォン・チューネンやクリスタラー中心周辺構造理論をもとに成り立ったスキナーのCore-Periphery論を応用し、大都市名古屋を中心として4つの圏域を設定すると同時に、村落の機能別に都市−非都市を4つの階層に区分し、その両者を縦横4*4のマトリックスにして尾張地域を単純化し分析した。その結果、人口、土地、生産性の指標においては「中心/都市」的村落から「周辺/非都市」的村落へと漸移的変化がみられた。このことは、とりもなおさず近世において尾張という名古屋大都市圏(城下町圏)において、いかに名古屋という大都市の影響が距離に比例して、すなわち漸移的に及んでいたかを実証したことになる。ただ、馬の分布については、必ずしも名古屋中心という変移はみられず、「周辺/都市」的村落から「中心/非都市」的村落への漸移的変化という新たな方向軸による秩序が認められた。
地誌を使った研究の一環として、隠岐の事例研究(溝口2000)を地誌分析の意義を中心に以下紹介したい。
本章では、貞享5年(1688)に記された隠岐の地誌『増補隠州記』7)の内容を紹介し、近世における地域研究の一助に資するものである。筆者は、近世、あるいは明治初期において、全国統一規模での調査はされていないものの、一国規模の広がりで編纂されている地理書に注目し、村落単位で記載されている基本的な情報を忠実、かつ多角的に読みとり、計量化、地図化を心がけてきた。計量化、地図化が最終目標ではなく、こうすることによって、単なる一村落に限った研究を超え、村落比較、村落間関係明らかにし、その史的展開を重視した地域構造史研究へと進むことを目的としている。本章で『増補隠州記』の記載内容、 近世村落の立地と村高、 戸数・人口、牛馬などの個別分析をすませてから、『増補隠州記』からみた地域像として地誌分析の意義を説いた。
1)基礎地域としての藩政村とその世界
日本中世の末期戦国時代に出現した豊臣秀吉により、百姓を土地に縛り付けるという「村切り」政策がとられ、厳密な土地把握をするためのいわゆる太閤検地が実施された。これを引き継ぐ形で農業をベースにした徳川幕藩体制が始り、前近代の政治的枠組、地域構成が確立した。
ここで誕生した村切りによる藩政村は、実質的な組織体として意味を持ち続け、明治以降も「大字」として現在に生きている。幕藩体制下の幕府及び藩はこの藩政村(以下、村という)を基礎単位として、村請け制度のもと税の徴収をおこなってきた。故に、村単位で村を理解しておくことが為政者にとって必須の業務であった。そのための事業が地誌作成であり、それは為政者の交代の時期、領国再建の時期に多く編まれることになる。隠岐の地誌『増補隠州記』が作成された貞享5年(1688)もそのような時期であった。
さて、ここで問題にしたいのは、為政者(作成者)がいかなる観点で何を調査項目として村を調べ上げていったか、という点である。隠岐に限らず全国のこの種の地誌を概観するにつけ、共通しているのは、地理(地勢、位置など)、政治(知行、村役人など)、経済(村高、田畑、租税、物産など)、社会(戸数、人口、施設など)、文化(寺社、名所旧跡など)が、個別的な精粗の差はあるものの、網羅的に語られている。一つのまとまった世界(小宇宙)としてとらえられている点は注目すべきである。そして住民の側も、出来ることならその村という世界内で生活を完結したいと努力している。その意味で村という領域はすこぶる重要なのである。
これを村からみた一次圏とするならば、その隣接村は二次圏にあたる。如何なる地誌にも東西南北に隣接する村名(隠岐の場合はそこへの距離も)が記載されているから、日常の拡大生活圏ともいえよう。田畑においては用水利用、海においては漁場利用、山においては共有林と隣接するが故の利害がからむ圏域である。そして三次圏とは村にとって二次圏外の遠隔地の飛び地的な交易・交流のある場所である。役所のある中心地であるとか、特産物の取引先とかである。村はこの三圏によって成立っているといってよく、その状況が地誌から読みとれる。それが地誌の編纂れた領域の総ての村において知ることが出来、そこから各村の特色、各村間の関係、そして地域(領域)内バランスなどの考察が展開できる。
2)地誌分析視角と隠岐の村の三位一体論
地誌が従来の地理学研究、あるいは歴史学研究の中で取りあげられることはままあったが、それはあくまでも系統的な主題のもと、例えば人口、土地利用、新田開発研究などにおいて、その概観をおさえるために利用されたにすぎず、地誌そのものが主役として扱われることはなかった。それはひとえに個別事項の記述の薄さ、網羅的記載によるわけであるが、見方をかえれば地誌研究はよみがえるであろう。すなわち、単一項目、系統項目のピックアップ利用型研究ではなく、地誌の特色を活かした総合的分析をめざすのである。
本研究で、地誌記載事項を付表で示したように、出来る限りデータベース化し、分布図を描いたのはそのためである。こうした図表を比較考察することによって、次のような地域像が見えてきた。すなわち、隠岐の村落の生業は、農業、漁業、林業(山利用)の三位一体を基本としていたこと。それは戸口規模のいかんにかかわらずすべての村に水田、畑がもうけられ、新田畑開発がなされていたこと、海に面していない村(山村)を除いてすべての村に漁請役が課せられていたこと、そして木材の切りだし、薪取りの記載が多くの村でみられたこと、などから窺える。その理想の形が島前の美田村であり、島後の中村であろう。『隠岐隠州記』の記載にこうある。「美田村:一、当所ハ田園、畠園、山林、漁猟、皆調テ、殊ニ郡中ニ勝レたる境地也、舟懸吉」、「中村:一、当所ハ山林広ク、田畑豊饒にして、漁猟を勤、家業安ク既ニ人家百軒ニ及」。
さてその三業の中で農業においては牧畑という畑作農牧業を中心としつつ、かつわずかではあるが水田、常畑も合わせ持った経営がなされていた。牧畑と大いに関係があると思われるが、すべての村に牛と馬(2ヶ村のみ牛だけ)が飼育されていたことは隠岐村落の特色として強調しておいてよかろう。
漁業は、海に面した海村ではすべてにおいて盛んであったが、多種多様の漁獲が村ごとに特化する形でおこなわれていたことが分布図を比較することによってよくわかる。日持ちする形での干物、塩漬け物が特産品として多くみられたことは、当時すでに域外との交易がかなり盛んであったことを物語っている。データベース化はしていないが、地誌項目の中に小島の記載が多く、その記載の中に好漁場が示されていることも多い。津戸村「一、大盛島 家里ヨリ弐里離レテ申方ニ在リ、・・・此島ニ隼巣有、海深サ三四尋、或ハ五尋、鮑、栄螺、和布、海苔、海松等有」。林業においては近世初期には木材伐採が相当なされていたが、中期以降は入会林を利用する形で島後北東部諸村が活気をみせたものの、全体的には薪生産に小規模化していった。海村においても多くの村で山の記載があり利用されていた。例えば、美田村「此焼火山ノ東西南北の尾谷を隔テ、皆山林也、美田ノ境内ニシて所々ヨリ入テ、薪を取ル、入口別レテ有リ」。
こうした第一次産業を主とする社会において、それとの関連で皮革業、回船業が成り立っていたことも注目しておきたい。
隠岐の個々の村は生業のあり方に共通性を持っていたと同時に、その中身、特に漁業においてするどい個性をもっていた。それが隠岐全体という社会に置いて統合され、その主要部分が商業、交易という形で対外的にアピール出来るように調和していたといえよう。
こうした生業に個々の百姓は、いかにとり組んできたのであろうか。この点に関して地誌は、次のように語る。都万村「一、田畑を耕シ、薪を伐、鰤、烏賊、和布、海苔、鯖、鮑等を取、漁の隙に塩焼て家業とス」。生業における村単位での農・漁・林の三味一体が、実は家単位で実施されていたのである。時代は下がるが、民俗学の調査がそれを示してくれる。直江廣治は昭和初期久見村の調査で「長い間そして現在においてもなお、生産の基礎は農業で、農の合間に海仕事と山仕事を営んでいる」といい、農、漁、山を総合した生産歴の表を掲げている8)。横田健一・有坂隆道は昭和31年に釜村の旧庄屋の佐々木章氏から「村人はどの家でも皆漁に行く。昔は殆ど全部が行き、私でさえイカ釣に行った」と聞取る。釜村は海岸段丘上にあり、決して漁場に恵まれている訳ではない。農・山の村である。そんな村でさえ村人はこぞって漁にいっていたのである9)。
以上の分析結果から、当時の村落世界を想像すると、家族単位でバラエテイにとんだ生業を行おうという姿勢、いわばミニ村落的行為、これが非常に強く見えた。家族というミニ村落を多数抱えた自己完結指向の強い村落、そして個々の村落で達成され得なかった部分を、主産地形成というもう一つスケールの大きい領国内で補完させる装置を有していた。そのうえで対外交易を発展させてきたのが隠岐である。いや、こうした姿は隠岐だけではなく日本の前近代の村落構造の特色ではなかろうか。
地誌分析の魅力は総合的分析にあるといいながら、本章では、生業関係を中心とした分析にとどまってしまった。本章で全くふれなかった寺社を初めとする他の豊富な記載の分析および経済的諸項目との関連性を論ずるという大きな課題は残ったままである。他日を期したい。
マクロ的視点での考察に、明治期以降の全国統計、近世期における地誌の活用があり、それらについては上記の通りであるが、もう一つに対象範囲は狭くなるが、ミクロ資料としての宗門改帳、人別改帳、名寄帳などが面的に連続して複数残されていれば、一村落を超えた範囲でのマクロ的考察ができよう。こうした観点で筆者は、1)近世美作の城下町津山における町人の通婚と、2)近世屋久島における家族構成の研究をおこなった。その概略を以下に述べよう。
(1) 津山の人別改帳
近年、全国各地で宗門人別改帳が発掘されて、近世における人口学的研究、家族史的研究が著しい進歩をみせてきた。しかしながら、それらの資料の発掘がほとんど農村に限られていたため、都市内の人口、家族に関する詳細は不明であった。こうした状況にあって、筆者が1996年6月に、津山郷土資料館で目にした文化元年(1804)の人別改帳は、以下の諸点で極めて資料価値の高いものであった。1)都市の人別改帳が残っていること、しかもその都市のほぼ全域(33ヶ町中31ヶ町)に残っている。これによって、従来不明であった都市内部の家族、人口およびその移動に関する実態を明らかにすることができる。これを提示するだけでも意義があろう。2)津山の人別改帳には、宗旨の情報はないものの、他のこの種の資料にはあまり見られない情報が載せられている。その情報とは、@妻の名前が書かれている。A家主の屋号が書かれている。ここから、多くの者の職業が類推できる。B家主、妻、母、養子、役介などの出身地とそこでの続柄が記載されている。C借屋主が記載されている。
参考までにどの人別改帳にも記載されている情報には、家族単位(家主に一括されている)、家族構成員名(母、妻の名前は除く)、家主との続柄、年齢がある、が津山の人別改帳はそれを凌ぐものである。この文化元年の人別改帳を使って、津山の町人の通婚圏を明らかにしたい。
(2) 通婚研究仮説
津山城下内のほぼ全町にあたる31ヶ町の人別改帳が揃っているという利点を活かして、次のような仮説(解明してみたい問題点を)を設定してみた。
1)同業者同士の結婚はどれほどあるのであろうか。インドのジャ−ティ(カースト)間内婚ほど厳しくは無いが、異業者とはあまり結ばれないのではなかろうか。『美作一国鏡』によれば「寛永期初期(1624−)といえば、工は必ず同町に軒を並べ、商は成丈け同業同町に、という同業同町制度の完成期と符合している」とあるが、190年経た文化年間には、どれほど同業者が同町に集住しているのだろうか。少なくとも職人町がいくつか残っており、同業者が集住しているとすれば同町内婚も多かったのではなかろうか。吹屋町、鍛冶町、船頭町、桶屋町、元・新魚町、下・上紺屋町ではどうであろうか。
2)京町、伏見町、美濃職人町は今(文化年間)でも京、伏見、美濃兼山と関係があるのだろうか。あるとすれば出身地との通婚もみられるのではなかろうか。これら遠隔地ではない美作国内を出自とする坪井町、勝間田町(出雲街道の宿場)、福渡町(旭川河畔)は在所の村と通婚があるのだろうか。
3)農民との通婚はどれほどあったのか。
4)武士との通婚はどれほどあったのか。
5)各町に借家(津山町内全体で35.2%)がかなり存在しているが、彼らの通婚は本屋層と違うのではないか。
以上のような通婚に関する問題を津山31全町について、丹念に吟味し、明らかにすることを目標とするわけであるが、その見通しをつけるために職人町色の強い吹屋町と鍛冶町を選び考察してみたい。
(3) 津山各町の家数と人口
通婚圏の分析に入る前に、津山各町の家数、人口、借家率、及び性比を概観しておこう。全町総計で家数1945軒、内借家664軒、男子3163人、女子2933であった。これらから1軒当たりの世帯員数は3.2人、借家率35.2%、性比(女性100に対する男性数)が109.6人という値が算出される。世帯員数は農村部に比較してほぼ半分の値で、核家族化の進んだ20世紀末の世帯員数に等しい。町別にみても最大でも堺町の4.1人という低さである。最小の河原町にいたっては47軒に104人しかいない。近世の町人町はこんなに少なかったのであろうか。他の都市との比較が待たれる。借家が多く存在しているのも特記され、最大は戸川町の57.8%、最小は福渡町の6.2%であった。性比をみるとほとんどの町で男性が女性を上回っており、この時期は都市も農村も男性過剰の時代であった。文化13年(1816)の農村部(西西条郡、東南条郡、東北条郡、西北条郡、勝南郡および久米南条郡総計)では男性14673人、女性12828人、従って性比114.4-という状況であった10)。
(4)吹屋町と鍛冶屋町における家族構成と通婚
両町において、家族構成、家族構成員の出身地、同職業内婚の実態を考察した結果、従来闇の中にあった近世都市内の町人の通婚に関して、すべての通婚が町人同士でもなかったし、すべての通婚が同業者同士でもなかったことを明らかになった。その中では鍛冶屋同士の通婚が比較的多くみられたのに対し、吹屋職同士ではあまりみられなかったという違いもある。
残りの29町の分析により、紺屋町、船頭町、大工町、魚町、桶屋町などの商・工業者間の通婚状況を含んだ津山町全体でのさらなる詳細な実態が明らかにされるであろうし、結婚前後のカップルの居住地移動についても新たな分析が可能になる。これらについては今後の課題である。
近世日本の地域的な差異については、大きく東西日本の差異、及び中心−周辺による周圏論的差異があり、そんな中で当時日本最南端の孤島”屋久島”での家族構成は本州でのそれと如何なる差異を示していたのか、それを明示しておくことは大いに意義があるように思われる。一般的に18世紀に入り複合的な大家族形態は姿を消し、核家族を中心とした小規模な世帯構成形態に変わりつつあった。屋久島ではどうか、享保11年の検地名寄帳を分析することによって考察してみよう。
南屋久の13ヶ村中の1つ、栗生村(54戸)の家族構成を例示すると、54戸中、傍系なしの家族がわずか13戸(24%)にすぎず、残りの76%もが傍系を含んだ複合家族であったことは、当時の本州の農村と比較してその割合は圧倒的に高い。この傍系家族率とならんで注目しておきたいのが夫婦率(戸主で妻のある家の割合)である。これが54戸中31戸(57%)と極めて低い。したがって、家主(父)と子、あるいは家主(父)と子+αという、子供から見れば母親不在の家族構成の家が13戸(24%)もあったことは驚異であり、傍系家族を検討してみると、片親不在の家族構成をとる例が、総傍系家族34世帯中20例(59%):母親不在17例、父親不在3例と、その割合がさらに高くなっている。傍系を含む、含まないにせよ家主の妻が不在という形態は、非常に不安定な家族構成が支配していた村落であったといえよう。典型的な核家族である夫婦と子供からなるのはわずか4戸のみであったし、家主夫婦+子夫婦+孫、あるいは家主夫婦+子+親という直系三世代はそれぞれわずか1例にすぎなかった。栗生村の総人口569人中、男293人、女276人で差し引き17人女性が少なく、この主たる理由は妻不在分にある。ただ、なぜ妻が不在なのかという原因については今のところ不明である。
栗生村の享保11年(1726)の名請人は89名。内、屋敷登録者は御蔵地1を含めて54人であった。その中で屋敷を含む耕地面積の最高保持者は源次郎家で5反6畝29歩である。トップが5反強というのは本州の貧村においてもまず見られない少なさである。したがって、家計は農業のみでは成り立たず、農外に生業を求めざるをえなかったのである。それが漁業であり、検地名寄帳からもその一端がうかがえる。最後にそれを示しておこう。二枚帆船(10石積み)所有者8戸、拾七端帆船(510石積み)所有者1戸、鰹網所有者6戸あり、その中で平右衛門家(保有地は2反3畝1歩で、村内10位)は上記両帆船と鰹網を所有しており、栗生村の漁業のリーダーであったことがうかがわれる。
日本には近代的な国勢調査が開始される以前にも優れた統計およびそれに準ずる資料が豊富に残されており、活用次第では俯瞰的なマクロ的な地域分析を行うことが出来ることを示した。その際に、統計資料をデータベース化し、一見無意味とも思われるような項目でも多種多様な角度から様々な地図を作製し、比較検討することを試みた。その結果、東西地域差、中心・周辺差、都市・農村差などの様々な地域秩序が浮かび上がり、地域理解に役立つことを示せたのは、本マクロ統計班の大きな成果であったと思う。ただ、近世の地誌にしろ、明治の府県統計書にしろ、現在までに整理、分析しえたのはほんの氷山の一角であり、まだまだ資料収集、データベース化を含めての基礎的な作業に相当エネルギーを費やさねばならない。こうした作業を継続することによってのみ、なぜ地域差が生ずるのか、といった要因解明への道が開かれると思う。
注
(1)
幕末維新期の七つの地域ミクロ史料(まとまった数十カ村の単年度のミクロ史料)で、以下のものが収集済である。a)常陸国真壁地方、b)武蔵国多摩郡南部、c)信濃国諏訪郡、d)飛騨国、e)越前国、f)伊勢国久居藩領、g)石見国大森代官領。鳥取県でもこの種の資料の存在が確認されている。
(2)
速水融編 『国勢調査以前 日本人口統計集成 1 解題』 東洋書林、1992、pp.1−16。
(3)
速水融 「明治前期統計にみる有配偶率と平均結婚年齢−もうひとつのフォッサマグナ−」 三田学会雑誌79−3、1986、pp.265−277。
(4)溝口常俊監修 『江戸期なごやアトラス』 名古屋市総務局、1998。
(5)溝口常俊 「江戸期尾張の中心周辺構造」 名古屋大学文学部創設50周年記念公開シンポジウム報告集、1999。
(6)溝口常俊 「隠岐の地誌『増補隠州記』(1688)の分析」、2000。
(7)周吉郡西郷町中町 高梨文太夫所蔵 『新修島根県史』 1965、pp.169-261。
(8)直江廣治 「島根県隠地郡五箇村久見」、柳田国男指導日本民俗学会編 『離島生活の研究』国書刊行会、1966、pp.299-358。
(9)横田健一・有坂隆道 「古文書と伝承を通じて見たる隠岐島の中近世史」、関西大学・島根大学『共同隠岐調査会編『隠岐−隠岐文化総合調査報告−』 毎日新聞、1968、pp.199-233。
(10)市立津山郷土館 『津山松平領の人口』 津山郷土館報第15集、1982、p.2。
明治17(1884)年9月、維新政府は、「内務省達乙第36号府県」をもって、全国の道府県に、統計書の作成、提出を命じた。この年は、特に目立った事件のあった年ではないが、維新で高揚した革新が、いろいろな側面で行き詰まり、一種の閉塞状況に陥っていた。近代工場の数はわずかで、東海道線も全通しておらず、政府は、薩長藩閥政府の色彩を濃くし、議会・内閣制度も整備されず、民法はもちろん、憲法も発布以前であり、「自由民権」の声がとどろいていた。明治14年の松方緊縮財政の実施により、経済界は活気を失い、民間企業も萎縮状態にあった。
このようなときに、政府が「府県統計書」の作成を求めたのは、一刻も早く、国としてのアイデンティティを確立し、政府としての地位を確保したかったからであろう。
しかし、政府の命じた「統計書」の284項目の書式は、必ずしも守られなかった。第一、齢達自身に「調査ニ多クノ手数ヲ要スルモノハ暫ク之ヲ闕クモ可ナリ」とか、「他ニ緊要ノ事項ヲ調査セシ者アラハ諸式ヲ見合ワセ適宜ニ其表ヲ増加ス可シ」というように、統一性を欠くものであった。その結果、明治20年の「府県統計書」をみると、神奈川県の364項目から山口県の190項目に至るまで、調査報告の事項ですら統一されず、全国をみると令達の指示より、少なめであった。(藤井隆至編「明治前期 全国府県別統計集成」東洋書林刊、の解題による)
ところが、詳細にみると、この府県統計書のなかには、非常に貴重な人口に関する指標が含まれていることが分かる。現在印刷刊行されているのは、明治20年の東日本の道府県に限られるが、福島県統計書には、1歳刻みの人口(男女別)と死亡者数(男女別)が記録されているので、そこから各歳別男女別の死亡率が計算可能で、さらに生命表や平均余命の測定が出来る。また、神奈川県統計書は、出産した女性の年齢と出産数が記録されているので、年齢別出生力の計算が可能で、これを合算すれば、合計(特殊)出生率(TFR)の計算すら出来る。
もちろん、江戸時代の宗門改帳からも、これらの人口統計学上、基本となる数値は計算可能であった。しかし、それは人口規模数百の村を単位とするもので、常にサンプル・サイズの問題にを回避することはできなかった。府県統計書は、数十万の人口規模を取り扱うので、こういった問題は生じない。もし、同様な観察が他県でも可能なら、明治前期という、伝統色の濃い近代以前の日本の人口統計上の見取り図を、かなり正確に描き得るのである。
「府県統計書」は、山口和雄教授の監修により、ほとんどがマイクロ・フィルム化されている。このことは、研究者にとって、非常な便益であるが、マイクロ・フィルムのままでは、利用が不便であり、あちらこちらを見ることは出来ない。漸く、最近になって藤井隆至氏の監修により、明治20年の統計書の復刻刊行が始まったが、現在、東日本のみでストップしている。この統計史料の重要性に気づいたので、本プロジェクトにおいては、少なくも明治期の府県統計書を、マイクロ・フィルムからプリントする作業を試みた。漸く明治20年、明治32年については、道府県全部、30道府県については、明治期のプリント作業を終えた。本格的な観察、分析、地図化の過程は今後のことに属するが、その基礎作業は終えた、といえるだろう。