人口統計学

3.1      人口統計学             河野 稠果

3.2      イスラム社会の人口統計         小島 宏

 

3.1 総論                 河野 稠果

3.1.1 人口学研究におけるEAPの活動と役割

 速水融をリーダーとするEAPプロジェクトが日本の人文科学の領域において他に例を見ない大型の、強力な研究体制を築き上げ、豊富かつ多彩な業績を生み出していることについて改めて述べるまでもない。それに参加している研究者の数と質、これまでに開催された国内・国際会議の回数と参加者の数、提出されたペーパーの質と量、そのいずれをとっても、桁外れの規模と力量を示している。これらの調査研究は、元来文部省が国立歴史人口学研究所を設立し年間3億円か4億円の予算を計上して行うべきものであり、それをEAPプロジェクトが在野における研究として、近世日本の人口・家族統計資料復元とそれに基づく社会経済的分析を試みているのは、正に日本の人文科学、社会科学の分野における一大壮挙といわなければならない。EAPはその形式人口学的研究に関してみても、出生・結婚行動・死亡のイベント・ヒストリー分析、マイクロ・シミュレーションを含む乳児死亡率推定作業等を通じて、日本における人口学研究全般の中で現在最も活発な研究活動を行っているグループであるということができよう。

 

3.1.2 EAPの人口学的目的

 かつて、本報告者は歴史人口学の目的は一体何かと考えたことがある。歴史人口学は、明治以前の近世の人口動向、すなわち人口数、人口増加率、出生率、死亡率、婚姻率、人口移動、家族サイクル等の人口学的指標を、宗門改帳あるいは人別改帳を基にして推定(復元)すれば、一応目的を達成したと考えてよいのであろうかという設問である。速水の答えはまあ大体そういうものだということであったが、勿論それに留まらないないことはいうまでもない。速水の『歴史人口学の世界』によれば、歴史のそれぞれの時代において、人口と社会・経済との関係、或いはそれらの変動が与える影響、相互の関係を探ろうとるする学問分野であると定義されており、単なる人口・家族復元だけが究極の目的ではない。しかしながら、この統計資料復元、人口指標推定作業が日本全土を広くカバーし、17、18、19世紀の日本、あるいはその中の主要地域の人口静態・動態を明らかにし、前述の基本的な人口指標を推定することができるならば、形式人口学だけの領域についても、それだけで無量の学問的価値をもたらす偉業であることは明白である。それは1970年代、80年代に国連をはじめ、米国学術会議人口・人口学委員会、国際統計学会、 International Statistical Institute が多くの人口統計学者、研究者を動員して行った、途上国における不完全なデータから人口動態率を推定する広範囲な調査研究活動に比肩すべきものであると思われる。ただし、国連、米国学術会議等の活動は、主として不完全なデータからの間接推定であったが、EAPの場合は、すでに過去に散在し、一つ一つはかなりの精度を持つ資料からの直接推定であるところが異なっている。

 宗門改帳あるいは人別改帳から求められる人口データは、長い場合には200年のスパンを持ち、毎年毎年の年次に対して属性別による人口のクロスセクションデータを提供している。正に宗門改帳や人別改帳が、各村あるいは小地域に対して毎年行われたセンサスであると言われるゆえんである。クロスセクションが行われた各地域、各村の人口の切断面には、世帯の構成員の年齢、男女の別、配偶関係、移動流入者の属性によるマトリックスが描かれており、そのマトリックスが毎年毎年の推移確率にしたがって異動し、変化する動静を観察することが出来る。そして、このようなマトリックス・データは、EAPにおいてすべてコンピュータよってデータ・バンク化されており(あるいはその途上であり)、関連研究者がこれにアクセスすることができるのは一大メリットである。このように歴史人口学的分析のための普遍的データ・バンクがEAPによって確立されたことは、日本の歴史人口学のさらなる発展に際してこの上ない貢献であるし、また日本の人口学に対するEAPの貢献でもある。これらは、一つには、後で述べるイベント・ヒストリー 分析に対して格好のデーターセットを提供していることになるし、さらにこれら人口マトリックスの時間的推移のデータは、各側面の関連研究に対する無限の宝庫であるといっても過言ではなかろう。

 

3.1.3 EAPのこれまでの人口学的貢献

速水のこれまでの研究の継承、そして発展である今回のEAP研究は多くの新しい発見、知見、そして仮説を生んでおり、人口学の観点から次の諸点は極めて斬新で、多くの知見、発見、再解釈を生み出している。そのいくらかを列記してみると、次の通りである。

第1に徳川時代は決して人口が静止し停滞していたわけではなく、非常に力動的な時代であったということ、前半は人口増加が顕著で、これは人口の歴史で戦乱が収束し、人心が安定し、農業に技術革新が起きた直後に人口が上昇した状況によく似ている。第2に、わが国の近世において出生率が予想外に低かったことが認められる。アイリーン・トイバーがかつての大著『日本の人口』をまとめる以前に何回か来日しているが、その当時徳川時代の出生率・死亡率の推定値を見て、届け漏れが非常に多いのではないかと疑問を呈していた。しかし、彼女の指摘は当時の発展途上国の状況から類推したもので、今にしてみればそれは必ずしも正しいとはいえず、実際に徳川時代の動態率が第二次大戦直後のアジア、アフリカと比べてかなり低いことが後で指摘されている。勿論、宗門改帳、人別改帳による直接推定では、ある年の調べと次の調べの間に生まれ、そして死んだ乳児に関しては特に記載がなく、したがって出生率も死亡率も漏れ(under-enumeration)を生じて実際の値よりも低くなるのであるが、しかしこれら出生、乳児死亡の漏れを勘案しても徳川時代の出生率は低い。

 第3として徳川時代において離婚・再婚が非常に多いことである。しかも女性の場合にも顕著である。本報告者は、徳川時代は儒教的精神に覆われていたので離婚再婚は元来少ないものと思っていたが、そうではなかった。一つには儒教的倫理ともいうべきものは、上流階級のいわばアカデミックな教えであり、農村まで必ずしも浸透していなかったこと、しかし一方、土地、あるいは小作権の相続と言う意味で、後継ぎの存在というものが非常に重要視された状況にあったのである。

 第4として、近世徳川時代において、女性が男子よりも短命である村、地域があったことも特筆すべきである。元来生物学的には女性が男性よりも長命であるのが普通であるが、インド亜大陸にあっては、1980年代まではどの国も女性が短命であった。これは、一つには非衛生的状況において多産であること、女性の食事、医療へのアクセスが男性よりも制限されていたこと、女性は一番早く起床し一番遅く就寝することから来る過労、という悪条件のためであるとされるが、徳川時代の農村女性は現代のインド亜大陸の女性の劣悪な生活環境に匹敵するレベルにあったのではないかと推察される。日本の場合には、第1回生命表1921−1925年の男女平均寿命の格差はわずかに1.14歳しかなかった。徳川時代においては、それがほとんどないか、あるいは逆転していたかのかも知れないと予想されていたが、EAPの研究成果から、いくらかの村では格差が僅少ながら、女性が短命であることが示している。それは、日本の農村でも衛生状態劣悪な環境における出産の機会が多く、それに加えて男尊女卑に由来する過労と栄養不足のために15歳から40歳くらいまでの女性が同じ年齢の男性よりも結核の罹患率が高いためであったと推察される。ただし、この平均寿命の男高女低の傾向がすべての地域において普遍的であったかどうか、そしてどれだけ地域差があったかどうかは十分解明されていない。

 第5として、近世徳川社会は社会流動性に関して、固定的であり非流動的であると思われていたが、実は非常に流動的であり、特に当時の都市人口は非常にmobileであることが報告されている。ただし宗門改帳にしても、その外の登録制データにおいても、移動に関して流入はわかっても、流出の場合どこに行ったかは必ずしも明確ではない。

 さらに第6として、人口指標に関して地域間の変異が大きいことである。それは特に、西南日本、関西、関東、東北日本という主要地域間でかなり異なっているが、同時に地域の中でもかなり変異がみられる場合がある。このほかにも多くの新しい知見・発見があるが、割愛する。

 

3.1.4 EAPにおける将来の人口学的課題

 すでに述べたように、人口学から見てEAPの最大の貢献の一つは、近世徳川社会の人口データの系統的整理、統合そしてコンピュータによるデータ・バンク化である。それは世帯単位のいわばミクロ・データを集積し、人口分析が可能なマクロな状態にエレベートし、マトリックスを構築することである。そこでセンサスにおけるいわば第一次集計が行われ、より観察件数の多い、したがって標準誤差の小さい数値のマトリックス配列の分析へと階段を上がることになる。そこで、これまでEAPにおいて必ずしも十分行われていない課題、すなわちEAPとして形式人口学的に将来何が出来るか、或いは何をすべきかという点について以下列記する。多くは隴を得て蜀を望むのたぐいであるが、EAP人口学将来の課題として考えてみたい。

第1に人別改帳あるいは宗門改帳にあっては、乳児死亡率、したがって出生率が寡少に申告されることは、すでに当初から指摘されているところである。これに対してこれまで多くの研究、試みが行われていることは論をまたない。第1は鬼頭宏による懐妊書き上げ帳におけるデータの比較研究による推定、第2に斎藤修が行ったような国際的なモデル生命表を補足的に用いる推定、第3に木下太志が試みたような生物人口学的な仮定に基づき、確率論的なマイクロ・シミュレーションによって推定を行うこと等が考えられる。これらにはそれぞれ長所と制限がある。それぞれいくつかの仮定を想定しているが、これら仮定がいつもrobustであるかどうかは分からない。このほかJannetta-Prestonが試みた過去帳を用いる方式、安定人口モデルを用いる推定法、そしてある時点の人口構成からの逆推計reverse projectionsによる推定法等がある。あたかも富士山に登るのにいろいろな登山口があるように、いろいろな登山口から登山した後、その経験を比較検討し、総合し、ある妥当な乳児死亡率を算定出来る段階にEAP はそろそろ到達していると考えられる。それからこれに関連して、恐らくもっと精緻なモデル化が必要になると想定されるが、その場合、アフリカ人口の出生率、乳児死亡率推定に対してブラス(W. Brass)やコール Ansley Coale)が考案したように、種々のモデル変換係数を発展させる必要があるだろう。

 第2として、人口統計数値のevaluation、つまり評価検定を行うべき段階に EAPは達しているのではないかということである。現在まで、EAP において、すでに得られる宗門改帳のデータはすべて正確であるという暗黙の前提を仮定しているが、その前提がいつも正しいという保証はない。不完全なデータ、欠陥のあるデータの検定手法、それを基にした推定方法の多くが国連等によって開発されている。例えば性比は比較的安定していると思われるので、それを用いて男女人口を比較し、漏れを把握する方法、国連の人口検定方法のマニュアルにあるように、ある年齢のすぐ前と後との年齢人口を平均し、それを真中の当該人口で割って得られる比率を比較検定する方法、特定年齢(年齢の末尾の数字)に対する年齢選好の状況を明らかにする方法等である。出生と死亡のデータを評価しその関係を検定する場合に、フランスの人口統計学者Paul Vincentmethod of extinct generationsの方法は極めて簡単で有力な方法だと尊重されている。それは、人口移動がないと仮定した上で、出生コ−ホ−トを時間的に追跡し、最後の1人が死ぬのを見届けて、各歳、各年の死亡数をコ−ホ−トに沿って足し上げ、その合計累積死亡数が最初の出生数にマッチしているかどうかを比較検証する方法である。また、そのほかに、各年齢のコ−ホ−ト生残率を計算し、それが振幅のない、比較的スムーズな状況にあるのかどうか、またその地域に対するモデル生命表の定常人口生残率にマッチしているかどうかの比較によっても、データの妥当性、正確性が相当程度検証される。

 第3として、村別の生命表を作成し、そこからより広域の生命表の作成へと進み、さらにそれらを集積し比較検討することによって、徳川時代日本の平均寿命の主要地域別変異・差異・例えば西高東低の状況をマクロ的に明らかにする必要があろう。またこれによって、同じ平均寿命を示していても、ある地域は乳幼児時期の死亡率が高いが、中高年齢においては低くなるといったパターンを明らかにすることができる。本プロジェクトにおける生命表作成、分析において、ミクロな村レベルのものはあっても、中間的な地域、あるいはより広い地域、例えば江戸・関東圏、大坂・関西圏といった地域に対する生命表が乏しいように感ずる。色々な生命表の蓄積によって、日本の主要地域(例えば東北地方、九州)に対するモデル生命表が作成されるならば、完全な死亡データが揃っていない地域の分析、あるいは人口指標の推定において有用であろうと考える。さらに、普通の生命表だけでなく、要因が複数の多重減少表multiple decrement tables さらに多相生命表の作成が行われれば、徳川時代の出生力分析・結婚分析・死亡分析はさらに洗練されたものになるであろう。

最後に第4として、このEAPにおけるイベント・ヒストリー分析が津谷典子、黒須里美によって行われ、それが方法論的に新鮮であり、多くの注目すべき成果を挙げていることを改めて指摘したい。すでに冒頭で述べたように、特に長い期間にまたがって進行する人口過程のダイナミックな変化のイベント・ヒストリー分析は、EAPにおいて極めて有力である。200年もの長きにわたってマトリックス・データが得られる状況は、この種のアプローチにとってこれ以上ない理想的なデータ・セットを提供するものである。ただ難を申せば、宗門改帳では分析のための変数としての社会経済的属性に乏しいことである。観察件数が少ないこともやや気にかかる。さらに申せば、そこで明らかになった結果は勿論素晴らしいが、イベント・ヒストリーはそれだけ良く研がれたナイフのように鋭利すぎ、精緻すぎて、ほかの研究手法と比較しバランスがとれていない感なきにしも非ずである。第3のところで述べたように、もう少し伝統的な人口統計学的手法による分析によって解明できる、あるいは解明されるべき基本的な研究課題が多々あるように見える。例えばその手法として、要素分析法components analysis、マクロ・シミュレーション法(人口推計のような方法)、ログリニア―重回帰分析、multiple decrement table(多重減少表)の利用が挙げられる。

 


3.2 イスラム社会の人口統計       小島

3.2.1 はじめに

 ユーラシア・プロジェクト(以下、EAPと省略)の1つの作業班として結成されたスパイスロード班(以下、SR班と省略)は、ユーラシア大陸のうちで重点的に研究が行われる予定であったわが国をはじめとする東アジアとヨーロッパを結ぶ広大な地域(主としてイスラム社会)を研究するために組織されたものであった。この発足には坂本勉を中心とする、江川ひかり、大河原知樹から成る、アナトリアを中心とするオスマン帝国に関する歴史的研究を続けて来た地域専門家グループの存在が大きい。また、溝口常俊がバングラデシュでの実地調査の経験をもって、鬼頭宏がスパイスロード周辺地域に関する文明論的知見をもって、岡田あおいがすでに研究を手がけていたフランスと日本を結ぶ地域の研究をもって、本報告者が東南アジアと南アジアの人口に関する個票データの分析を行いつつあったということをもって寄与した。

 地域専門家グループは以下に示す通り、着実に所期の成果を上げた。それ以外のSR班メンバーは当初、歴史人口学的な分析が可能なデータが存在するトルコに関する研究を地域専門家グループの教えを請いながら行ったのちに、インド亜大陸に関する研究を行うことも計画していた。しかし、時間的・予算的制約とコーディネーターの努力不足から地域専門家グループの支援のもとでトルコにおける現地調査とワークショップを実施した段階で事実上、活動を終えることになった。なお、このボワジチ大学で開催されたワークショップにはEAPのトルコ人メンバーでイスタンブールにおける世帯の歴史人口学的研究で著名なCem BEHARが寄稿した。以下においては、まずSR班の全体的な研究活動について報告し、次に当班のコアをなす地域専門家グループの研究活動について詳述し、最後にその他の研究活動について若干述べることにする。

 

3.2.2 班全体の研究活動

3.2.2.1 研究会等

 日本との比較を念頭に置きながら、トルコにおける人口と家族について歴史学的、地理学的、社会学的、経済学的、人口学的アプローチからの研究を進めた。研究は各班員がそれぞれの興味関心に応じて行ったが、班全体として共通の知的基盤をもてるようにトルコ人口史・家族史の基本書3冊を輪読するとともに、トルコの専門家による講演会を実施した。また、研究情報交換のためにニュースレターを9回発行した。さらに、3.2.2.2で述べる通り、トルコでの現地調査とワークショップを実施して日本とトルコの比較研究を行ったが、出発前に準備のための会議を持ったし、帰国後に反省会も行った。

 

     第1回 1995年10月14日(土)午後4〜7時 

            麗澤大学東京研究センター

      今後の研究方針の検討会

     第2回 1995年12月19日(火)午後3〜6時15分

            麗澤大学東京研究センター

     Alan Duben and Cem Behar, Istanbul Households:   

     Marriage, family and fertility, 1880―1940,

     Cambridge, Cambridge University Press, 1991

     の輪読会

     特別研究会 1996年1月13日(土)午後4〜6時

            慶應義塾大学地域研究センター

             Cem Behar ボスポラス(BOGAZICI)大学経済学部

         教授の講演会

     第3回 1996年5月18日(土)午後2〜4時45分

            麗澤大学東京研究センター

             Kemal H. Karpat, Ottoman Population, 1830

                  ―1914, Madison, University of Wisconsin

                  Press,1985 の輪読会

     第4回 1996年12月7日(土)午後2〜5時30分

            慶應義塾大学三田キャンパス新研究棟

            Justin Andrew McCarthy, Muslims and Minorities: 

                 The Population of Ottoman Anatolia and the End of

                 Empire, New York, New York University Press, 19 

                 83 の輪読会、およびトルコでのワークショップ・現

                 地調査の計画

 

3.2.2.2   トルコにおける現地調査とワークショップ

                              (1998年10月10〜17日)

  SR研究班の5名(江川、鬼頭、坂本、溝口、小島)は、以下のスケジュールに従ってトルコにおいて現地調査とワークショップを実施し、一定の成果を上げた。

10月10日(土)羽田出発、関空経由でイスタンブール到着、溝口班員とは関空で合流し、坂本班員とはイスタンブールのホテルで合流

    7:45 JL113  羽田−関空      

   12:00 TK1017 関空−イスタンブール

  19:25

      (イスタンブール:Harem Hotel泊)

10月11日(日)アダパザール/イスタンブールにてフィールド調査(Mr. and Mrs. Semih DOGAN

   (イスタンブール:Harem Hotel泊)

10月12日(月)イスタンブール:総理府オスマン古文書局、イスタンブール大学文学部、同学部歴史学科を訪問し、情報収集・情報交換  Prof. Ilhan SAHIN

   (イスタンブール:Harem Hotel泊)

10月13日(火)イスタンブール:ボアジチ大学にてEAPワークショップ開催(Prof. Selcuk ESENBEL, Ms. Mariko ERDOGAN

   イスタンブールからアンカラへ移動

   20:00 TK146 イスタンブール−アンカラ 

   (アンカラ:Buyuk Ankara Hotel泊)

10月14日(水)アンカラ:国家統計局(Ms. Meryem DEMIRCI, Ms. Fisun SENER)アンカラ大学文学部歴史学科(Prof. Yavus ERCAN)、トルコ歴史学協会(Dr. Yusuf  HALACOGLU

     (アンカラ:Buyuk Ankara Hotel泊)

10月15日(木)アンカラ:ハジェテペ大学人口研究所(Dr. Attila HANCIOGLU)、保健省(Dr. Mehmet Rifat KOSE)、在トルコ日本大使館(遠山敦子大使、山中啓介一等書記官)、中東工科大学都市地域計画学科(Prof. Ayse GEDIK, Prof. Tansi SENYAPILI)を訪問し、情報収集・情報交換

   アンカラからイスタンブールへ移動

   20:00 TK145 アンカラ−イスタンブール 

   (イスタンブール:Harem Hotel泊)

10月16日(金)イスタンブール:出発準備

                  イスタンブール出発

   16:50 TK1016 イスタンブール−関空 翌10:55

10月17日(土)関空経由で羽田到着

   14:40 JL114  関空−羽田      15:55着

 また、10月13日(火)の午後1〜6時にボアジチ大学で開催されたワークショップは以下のようなプログラムに従って行われた。ただし、第6報告はCem BEHARが出張中のため、論文提出のみであった。参加者は少数精鋭(ボアジチ大学からはESENBEL, ERDOGAN両氏のほか、Huseyn SIVASLI氏、マルマラ大学からIbrahim OZTURK氏)であり、活発な質疑応答がなされた。また、開会の挨拶、第1報告、質疑応答の一部は英語で行われたが、それ以外は日本語で行われた。

1.Determinants of Japanese Couples' Coresidence with Their Older Mother小島宏

2.Marital Fertility in Early Modern Japan a Historical and Comparative Study鬼頭宏

3.Market Traders in Sandila, North India溝口常俊

4.19世紀中葉バルケスィルの人口と家族(江川ひかり)

5.The First Japanese Hajj Kotaro YAMAOKA and Abudurresti Ibrahim坂本勉

6.The Census Sources for the Historical Demography of the Late Ottoman Empire (Cem BEHAR)

討論者Selcuk ESENBEL

 

3.2.3 地域専門家グループの研究活動

3.2.3.1 研究遂行上の問題点

 オスマン帝国における人口史、家族史研究は、他の地域のそれに比べて難しい問題を多く抱えている。その理由としては第1に、オスマン帝国の支配していた領土が広大な地域にわたっていたことが挙げられる。オスマン帝国の発祥の地であり、中心たる位置を占めてきたのは、言うまでもなく今のトルコ共和国があるアナトリアである。しかし、その最盛期においてオスマン帝国の領土は、バルカン半島からアラブ諸地域(シリア、レバノン、ヨルダン、パレスティナ、イラク、アラビア半島、エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア)にまで及び、さらにコーカサス地方の一部までが領土として包含されていた。このような広大な地域に民族、宗教においてきわめて多様な人々が住み、これらの人たちが歴史的に作り出す人口動態、家族形態は地方ごとに偏差に富むものであった。こうした状況がオスマン帝国における人口史、家族史を統一的に把握していくことを難しくしてきたのである。

 第2に、オスマン帝国は13世紀末から1923年まで続いた大帝国であるが、この長い歴史の中でどの時期に焦点を当てて研究していくのかという時期選定の難しさがある。日本の場合は宗門改帳という世界でもまれな歴史人口学、家族史に関する豊富なデータが存在し、このため必然的に近世の江戸時代が研究対象とされているが、オスマン帝国の場合は十分に利用できる人口統計史料が出てくるのは19世紀以降であり、時期を日本と同じ時代に設定して比較研究していくことは困難であると言わなければならない。

 第3に、19世紀以降、本格的な人口統計史料があらわれているといっても現段階においてその整理は十分にされておらず、所在調査すら完全に把握されていないというのが実状である。

 このようにオスマン帝国における人口史、家族史研究は、日本のそれと同じ土俵で論じることができないが、ユーラシアを構成する諸地域の比較という壮大なプロジェクトの一翼を担い、人口史、家族史研究に寄与していきたいという抱負から以下のような手順に従って実際の研究を行った。

 

3.2.3.2 基礎研究の輪読と問題点の整理

 まず、オスマン帝国における人口史、家族史研究にとって最も依拠するにたると思われる英語で書かれた次の3著、すなわち 1) Kemal H. Karpat, Ottoman Population 1830―1914,  University of Wisconsin Press, 1985、 2) Justin McCarthy, Muslims and Minorities:  the Population of Ottoman Anatolia and the End of Empire, New York University Press, 1983、 3) Alan Duben and Cem Behar, Istanbul Households, Cambridge University Press, 1991 を輪読する会を開いて問題点を整理した。

 この結果、史料的にみて19世紀以降の近代に重点をしぼり、地域的にはアナトリアとアラブ地域からそれぞれ一つずつ対象地域を取り上げ、ミクロな面からの研究を行っていくことを方針にして研究を行っていくことにした。また、これとは別に必ずしも人口統計史料に依拠するわけではないが、マクロな視点からする人口移動の問題を論じていくことも確認され、次の手順に従って実際の研究が行われた。

 

3.2.3.3 トルコ語で書かれた人口史関係論文の翻訳

 英文で著された人口史研究の著作とは違った視点から書かれている研究も押さえておく必要があるという認識から大河原知樹は、『オスマン帝国で実施された1831年人口調査に関する研究論文』と題してEAP国外文献シリーズ第1号にトルコ人の研究者エンヴェル・ジヤ・カラルとアクバルファズラの手になる二つの論文を翻訳した。1831年の人口調査は、オスマン帝国において初めて体系的に行われた調査であり、近代の人口史研究の出発点となる重要な意義を有するものである。

 

3.2.3.4 人口史関係の刊行史料の所蔵調査

 1831年の人口調査資料に次いで利用価値が高いと考えられている刊行資料として『サールナーメ(年報)』というものがある。この資料は、1866年から1905年にかけてオスマン帝国を構成する各州においてそれぞれ編纂された年鑑であるが、これらのなかには人口史関係史料が多く含まれ、有用性がきわめて高い。全部で400冊にもおよぶ大部なものである。幸いなことに日本のいくつかの研究機関にはこれが所蔵されており、この実際の状況を確認するためにそのカタログを作成した。その結果が坂本勉監修、江川ひかり・大河原知樹編集『国立大学・公立図書館・研究所所蔵オスマン帝国「年報 Salname」目録 −95年度版−』(EAP資料目録シリーズ第1号)である。また、これを補うレファレンス・ワークとしてフランスのダニエル・パンザックが編集したオスマン帝国の人口史関係の研究書・論文目録を翻訳し、一般の便宜に供することにした。その具体的な成果が、大河原知樹・江川ひかり編集『オスマン帝国の人口文献目録−−ダニエル・パンザック著「オスマン帝国の人口」(1993年)改編版−−』(EAP資料目録シリーズ第2号)である。

 

3.2.3.5 オスマン帝国の人口史研究の具体的方針

 史料と研究の状況を考慮して対象とする時代を19世紀以降の近代にもっぱら集中させ、この時期におけるオスマン帝国の人口動態をミクロ、マクロ両方の観点から明らかにしていくことにした。江川ひかり、大河原知樹の両名はミクロの研究を担当した。江川はアナトリア西北部の小都市バルケスィルを中心とした人口問題を、大河原はオスマン帝国領内といってもアラブの人たちが多く居住するシリアのダマスクスに焦点をあててそこでの人口動態と家族についての基礎研究を行った。この二つの研究を対比させていくことによってオスマン帝国内におけるトルコ人が主として住むアナトリア地方とアラブ人が多く住むシリア地方におけるそれぞれの特徴を比較した。他方、坂本勉は、これらのミクロ研究を踏まえてマクロな人口移動の問題を扱い、近代になってから顕著にみられるようになってきた民族、宗教問題によって起こされた人口移動の問題、巡礼という毎年繰り返される宗教儀礼によって引き起こされる人口移動の問題を社会経済的に研究することにした。

 

3.2.3.6 江川ひかりのアナトリア西北部バルケスィル郡における人口動態に関する研究

 オスマン帝国において最初の人口調査が行われたのは前述のように1831年のことである。このあとオスマン帝国における網羅的な人口統計史料は、1866年におけるサールナーメ(年報)の刊行開始まで待たなければならないが、江川はこの約40年間に及ぶ人口統計の空白を埋めるべくイスタンブルの総理府文書局に所蔵されている人口調査台帳、資産台帳を精査した。これによってバルケスィルというアナトリア西北部の地方社会における19世紀中葉の総人口、ムスリム人口と非ムスリム人口の比率、人口変動の具体的な諸相が明らかにされた。その具体的成果は、「タンジィマート改革と地方社会−−1840年のバルケスィル郡『資産台帳』にみる土地「所有」状況を中心に」(江川 1997)として結実した。

 

3.2.3.7 大河原知樹のシリア・ダマスカスを中心とした人口史研究

 大河原は、1997年4月より99年3月までの2年間にわたってシリアに留学し、この間、オスマン帝国の支配下にあったダマスクスの人口、家族史研究のための新史料の調査に没頭した。シリアの国立歴史文書館に所蔵されているイスラーム法廷文書台帳が貴重な人口史関係の史料になるという認識から、2300冊余りの台帳に目を通し、その年代、文書数などの基礎データを確定しつつデータベース・システムを構築した。その結果は、ダマスクスのフランス研究所所員のB.マリノ氏との共著の形をとってCatalogue des Registres des Tribunaux ottomans conserves au Centre des Archives des Damas (『ダマスクス古文書館所蔵オスマン帝国時代の法廷文書目録』)としてフランス語で刊行された。なお、大河原はこれとは別に、20世紀初頭におけるダマスクスの住民台帳を史料として家族構成についても研究したが、これは雑誌論文として発表が予定されている。

 

3.2.3.8 坂本勉のマクロな視点からする巡礼を中心とした人口移動の研究

 坂本は、オスマン帝国領内でもアラビア半島にあるメッカという都市に着目しながら、ここに毎年めざしてくる巡礼者たちの人口移動についての研究を行った。人口移動を引き起こす要因となった社会的背景、宗教思想上の理由を探り、イスラーム改革運動、パン・イスラーム主義というものが、巡礼をめぐる人口移動にいかなる影響を与えたのかを研究した。その結果は「山岡光太郎のメッカ巡礼とアブデュルレシト・イブラヒム」(池井優・坂本勉編『近代日本とトルコ世界』頸草書房、1999年)、「メッカ巡礼とイスラーム改革運動」(歴史学研究会編『地中海世界史4−−民衆信仰』)青木書店、1999年)、『イスラーム世界と巡礼』(岩波新書、2000年5月刊行予定)として結実した。このほか、オスマン帝国の非ムスリム商人の活動、人口移動の問題についても研究を行ったが、これについては別に雑誌論文として発表の予定である。

 

3.2.4 その他の研究活動

 非専門家グループのメンバーの多くはトルコにおける現地調査・ワークショップ以降の日が浅いこともあるし、他の研究班における活動に重点を置いてきたため、鬼頭と小島を除いてトルコないしその周辺地域に関する研究業績を出すに至っていないが、今後しだいに出していくものと思われる。

 

3.2.4.1 鬼頭宏の現地調査に基づく発表

 鬼頭は現地調査に関して「トルコ歴史人口学紀行」(『ソフィア』189号、1999年5月, pp.72−86)と題した小論を著し、トルコの歴史人口に関する紹介を行った。現代的問題や文明論的な問題にも触れながら、日本とトルコの関係にまで言及したものである。

 

3.2.4.2 小島宏の現代人口学的研究

 小島は主として、1993年に実施されたトルコ人口保健調査(Demographic and Health Survey)という全国サンプル調査のデータにロジット分析等の多変量解析の手法を適用して、日本を含むアジア諸国や中東諸国と比較しながら、出生とその近接要因、疾病・死亡、就業、移動等の人口学的行動に関する実証分析を実施した。多くの業績のいずれもが比較人口学的研究とは言えるかもしれないが、歴史人口学的研究とは言い難いため、ここでは詳しい内容には触れないことにする。全体としてみると東アジア、東南アジア、南アジアとも異なるし、他の中東諸国とも異なる人口学的行動パターンを示す場合がしばしばあるが、南欧や中央アジアのトルコ語圏諸国との類似性をもっている場合もあることがうかがわれる。しかしながら、普遍的に大きな影響力をもつような人口学的要因や経済的要因の影響は他の国々と同様に見られる。