2.1
総論 落合恵美子
2.2
世帯 落合恵美子
2.3
継承・相続 岡田あおい
2.4
ライフコース 黒須 里美
2.5
武家 坪内 玲子
2.5.2 大名の人口動態 村越 一哲
2.6
出産・子育て 沢山美果子
マイケル・アンダーソンは『家族史へのアプローチ』(邦訳『家族の構造・機能・感情』)の中で、家族史のアプローチには(1)人口学的アプローチ、(2)心性史的アプローチ、(3)家庭経済的アプローチの三者があると整理した(Anderson 1980)。とはいえ、三者は全く独立しているわけではない。心性史的アプローチの代表的存在であるフィリップ・アリエスがフランス人口史研究から出発したように、心性史的アプローチは人口学的アプローチを基礎として展開されてきた。家計を扱う家庭経済的アプローチにとっても人口データから得られる世帯についての情報は必須である。すなわち人口学的アプローチこそが1970年代以降の家族史研究の根幹をなしてきたと言っても過言ではない。現在の国際学会などの構成を見ても[たとえば社会科学史学会(Social Science History Association)の家族史を担当するネットワークは家族・人口ネットワークと名づけられている]、人口学的アプローチはもはや家族史研究の共通のパラダイムとして受けとめられていることがわかるだろう。
しかしながら、本プロジェクト開始以前、日本では、歴史人口学と社会学・日本史研究者を主体とする家族史との交流は残念ながら密ではなかった。それまでにも歴史人口学は少なくとも二、三の非常に重要な命題(17世紀単婚小家族化仮説、17世紀婚姻革命仮説および日本社会の地域性に関するフォッサマグナ仮説)を家族史に提起してきたが、その意味が広く受けとめられてきたとは言い難い。両分野の乖離の原因としては、日本の歴史人口学が主に経済史出身者によって担われ、他領域との関係をあまり持ってこなかったこと、一部の学会を除いて、日本の学会の国際的閉鎖性のため国外での歴史人口学者の活躍が国内学会の動向に反映されなかったことなどが挙げられる。本プロジェクトは、この歴史人口学と家族史との分離を乗越え、両分野を結合して、日本の(および国際比較参加5ヶ国の)人口−家族システム(demo-family system)の解明を行うことを目標とした。
歴史人口学と家族史とを結合するためには、日本は史料的に有利な条件にある。ヨーロッパの歴史人口学の代表的史料である教区簿冊(parish register)は洗礼、婚姻、埋葬すなわち出生、結婚、死亡といった人口学的イベントの記録だが、誰と誰が同居しているといった家族あるいは世帯についての情報は得られない。そこで人口学的家族史を創始した英国のピーター・ラスレットは、住民台帳(listings)を家族史の研究史料として用いることにした。しかしイングランドでは残念なことに同じ教区から教区簿冊と住民台帳の両方が発見された例はないため、ケンブリッジ・グループは教区簿冊を用いる歴史人口学部門と住民台帳を用いる家族史部門とに別れて活動することとなった。
これに対し日本の歴史人口学の代表的史料である宗門改帳・人別改帳は世帯あるいは家、(あるいはそうは言わずとも、同居、生活共同、徴税・被支配の単位のいずれとしてであれ、少なくとも当時の社会にあって意味があると思われた社会的単位)ごとに作成され、あたかも毎年国勢調査(センサス)を行ったかのように毎年の世帯成員の静態情報(名前、年齢、続柄等)と、しばしば出生、死亡、婚姻、奉公などの人口動態情報を記録している。
ケンブリッジグループが果たせなかった同じ史料を用いての歴史人口学と家族史との協動は、このような史料が存在してこそ可能なのである。本プロジェクトでは、こうした日本の史料の利点を十全に利用すると同時に、同様の利点をもつ史料が得られる中国およびヨーロッパ3ヶ国の社会との比較研究を行った。
宗門改帳・人別改帳を史料とする以外に、家族史班には、各藩の系譜史料や『寛政重修諸家譜』、華族系譜などを史料として武家・武士を研究するグループと、懐妊書上帳その他の文書を用いて出産・子育ての心性史を追究するグループも含まれている。用いる史料は異なるが、歴史人口学と家族史を統合しようとする方向性は共通しており、得られた知見も農民についての数量分析と相互に補完的で、本プロジェクトの研究に厚みを加えたと言えよう。
家族史の観点から本プロジェクトの成果を整理すると、大きく3点を挙げることができる。
まず第1点は、個人を単位としたライフコース分析の蓄積である。家族史研究では従来、法制史、制度史としての研究が先行する傾向があった。実態分析が行われる場合でも、大部分は家族あるいは世帯を単位とした分析であり、しかも時間的には1時点をとった静態的分析が主であった。しかし本プロジェクトで使用した史料には、@個人の生活イベントの記録が得られる、A長期間連続した史料の利用により「時間」を分析できる、という利点がある。その情報を十全に活用することによって、個人の行動をライフコースに沿って分析したのが本プロジェクトのもっとも顕著な成果である。
個人を単位とする分析を行うということは、性別、年齢、階層、家族構成等々、異なる属性を持つ個人が経験する異なるライフコースのパターンを描き出すことを可能にする。「ライフコース」の項で紹介される、性別、出生順位などによる離家パターンの違いや、養子と嫁の結婚継続期間の違いの分析、「結婚」の項(1.6)の結婚の生命表分析はその代表的例である。他にも、家督相続、奉公などが、同様の観点から分析された。農民のみでなく武士研究でも、「武家公家」の項で紹介されるように、継承、婚姻(磯田 1997)、養子(磯田 1999a)、出生などのパターンが、やはり個人を単位とした分析により、階層などの属性の違いに注目しながら描き出された。
ライフコースの違いは、個人の異なる属性によるパターンの違いとしてばかりではなく、時間をさらに細分化して、時間と共に変化する諸条件によるイベントの生起する確率の違いとして分析することもできる。イベントヒストリー分析と呼ばれる方法である。社会学で現代社会における個人の行動を分析するためにしばしば用いられるこの方法を、本プロジェクトでは歴史データにおそらく日本で初めて適用された。出生、死亡、婚姻、離婚、親との同居などの問題がこの方法で分析され、これらのイベントが経済状況や家族状況によっていかに影響を受けていたかが明らかになった。さらに国際比較研究は、その影響のパターンが、社会によって異なることを示した。
以上のように、個人を単位とした分析は、他の諸状況と並んで家族状況がいかに個人のライフコースに影響を与えていたかを、家族を単位とした分析からは知ることのできない精度で描き出した。世帯の戦略や、それと個人の戦略との矛盾や一致は、個人を単位とした分析を行うことによって初めて明らかになる。本プロジェクトは、制度史研究や静態的分析の限界を打ち破り、歴史的時間と個人的時間の流れの中で行われる制度と個人のダイナミックな相互作用を記述し分析するという、家族史研究の全く新しい段階を切り開いた。
時系列的に連続した史料を用いることにより「時間」の分析が可能になったのはすでに述べた通りだが、ここに言う「時間」とは個人のライフコースを形作る個人的時間ばかりではない。100年あるいは150年連続した史料を用いることは、徳川時代における家族の歴史的変化の大きな流れを展望させることも可能にした。
近世家族の歴史的変容についての本プロジェクトの貢献の特色は、焦点を当てた時期にある。これまでの歴史人口学的家族史研究でも、家族の変化はひとつの主要なテーマではあった。しかしそこでの焦点はもっぱら近世初期にあり、Hayami and Uchida(1972)と速水(1973)で示された、17世紀に世帯規模と世帯構造の大転換(単婚小家族化)と婚姻率上昇があったという仮説が、論議の中心とされてきた。本プロジェクトでの主要史料は18世紀初期以降、あるいは18世紀後期以降のものであったため、この仮説の検証は行えなかったが、その代わり、18世紀後期あるいは19世紀にもまた重要な家族の変化が生じたのではないかという仮説が、さまざまな観点から浮かび上がってきた。
実態としての変化がもっとも顕著に観察されたのは、東北地方の旧二本松藩領である。天保10年代以降、世帯規模の上昇が見られ、それに伴って世帯構造もやや複雑化した。また同地域は、18世紀には低初婚年齢と低出生率、既婚女子の奉公を特徴としていたが、19世紀には女子初婚年齢と出生率の上昇が起こり、未婚女子の奉公が増加した。詳しいメカニズムが完全に解明されたとはまだ言えないが、おそらくは養蚕業の発展に伴い、女子労動力需要と生活水準が大きく変化し、世帯形成パターンに変化が生じたものと考えられる。出生率上昇の効果により、天保の飢饉まで減少傾向にあった人口規模も、その直後から増加に転じる。19世紀に始まり明治以降へと連続する近代日本の人口成長は、東北地方の人口増加に牽引された面が大きいが、それは同地方に起こった世帯形成パターンの変化に関係があるという仮説が立てられよう。東北地方の他地域、および他地方についての検証が今後の課題である。
出産をめぐる心性に注目しても、18世紀末から19世紀前期にはある変化が見られる。それ以前は許容的だった堕胎・間引きに対する態度が、一転して厳しいものに変わるのである(Ochiai 1999a)。人口減少に苦しんだ東北地方ではこの変化が特に顕著だったようで、反間引きのイデオロギー的宣伝や取締もさかんで、実際に出生率が上昇し出生性比のバランスも回復する。上述の東北地方における世帯形成パターンの変化は、行動レベルの変化にとどまらず、民衆の価値観や心性の変化とも連動していたようである。
家族理念の変化についての仮説も提出されている。宗門改帳・人別改帳の記載様式の検討から、天明年間(1780年代)を境に家的家族観の成立が見られる(平井 1996,1998a)。安永9(1780)年には夫婦同宗とすべしとする法令が出されていることなどから、幕府の方針を反映したという側面もあろうが、民衆自身の家族観も変化したという証拠もある。例えば永田は上述の旧二本松藩領における改名パターンを分析して、初期にはあまり見られなかった家の連続性を強調するような名前の使用が19世紀以降頻出することが発見された(Nagata 1997b)。
本プロジェクトで示唆された18世紀後期から19世紀前期にかけての家族の変化は、実態面からも理念面からも、現代に生きる我々が「家制度」と聞いて思い浮かべるような「近代的家」の誕生といった性格を持っている。「家」は近代に作られたとか、明治民法が発明したとかいう議論があるが、本プロジェクトの成果はそうした「近代的家」の原型は近世後期に成立したという仮説を指し示している。ただし、特に実態面の分析は東北地方の事例に主によっているので、あくまでこれを仮説として、他地域の事例も検討することが肝要であろう。
なお、武士についての分析からも歴史的変化は見出せるが、その方向は農民について観察されたものとは重ならない。本報告書で坪内がまとめているように、18世紀には17世紀に比して長男による継承が減少(加賀藩)、実子による継承が減少(10万石以上の大名家)という傾向が見られるが、その原因は家制度の問題としてより、「時代が下がるにつれて子の数が減少したことと、補完装置として婿養子、養子などを受け入れたこと」という、人口学的要因から説明できるようである。この知見は、「17世紀後半に生れた子供から乳・幼児死亡率が上昇し始めた」とする村越の分析とも整合する。
本プロジェクトの家族史的観点からの成果として、3番目に特筆すべきなのは、人口-家族システムの地域的多様性の解明である。
本プロジェクト開始より以前に、日本の歴史人口学が家族史研究に投げかけた重要仮説の一つに、日本社会の地域性に関する「フォッサマグナ」仮説があった。明治19(1886)年末調査の『日本帝国民籍戸口表』から府県別の婚姻年齢を計算すると、フォッサマグナから西では男子27歳以上・女子23歳以上がほとんどであるのに対し、東では男子25歳未満・女子21歳未満と、西高東低の傾向が明瞭である(Hayami 1987)。
婚姻年齢について提起した「フォッサマグナ」仮説を、速水は、本プロジェクト遂行中に、平均世帯規模、世帯あたり夫婦組数、出生数なども含めた総合的な人口-家族形態の地域性についての仮説として提起し直した(速水1997,pp.226−241)。そこでは日本を二つではなく四つ(東北、中央、西、西南)ないし三つ(4地域のうち中央と西を統合する)に分ける四ないし三地域仮説を提案している(速水1997,p.243)。社会学や民俗学では東西日本の相続形態や世帯構造の違いを以前より論じてきたが、人口学的データを参照することにより、地理的境界の確定や、典型的慣習と例外的慣習との区別、各地域での各要素の有機的結びつきなどを、より具体的かつ厳密に論じることが可能になったと言えよう。
地域的多様性という観点から見た時、本プロジェクトで用いた史料の地域的分布は理想的であった。本プロジェクトで主に用いた時系列史料は、現在の福島県中部にあたる旧二本松藩領の下守屋村と仁井田村、濃尾地方の輪中の村である西条村、長崎県西彼杵半島突端の漁村野母村のものである。それぞれ、東北日本、中央日本、西南日本に位置している。それぞれの地域の人口学的および社会学的特徴は、多くの分担者により、さまざまな角度から分析され、速水仮説を検証する(部分的には反証)ことになった。
3地域のうち、東北日本と中央日本に属する旧二本松藩領と濃尾については、特に分析が進んでいる。世帯構造は複雑、婚姻年齢は低い、結婚後に奉公に出る、婚姻出生率は低いという二本松藩領のパタンと、世帯構造は比較的単純、婚姻年齢は高い、結婚前に奉公に出る、婚姻出生率は高いという濃尾のパタンとは、実に対照的と言える。
それぞれの地域の状況をより詳細に検討すると、例えば旧二本松藩領では、結婚年齢が低いから、世代間年齢差が小さくなって多世代の同居が可能になり、他方、結婚前には奉公に出る年齢に達しないので結婚後奉公に出る、多世代が同居しているから乳幼児を祖父母に任せて若夫婦が二人とも奉公に出ることもできる、というように、それぞれの要素が有機的に関連していることがわかる。婚姻出生率が低いのは、栄養状態の悪さなどによる妊孕力の低さや、意図的出生制限によるところが大きいようだが、婚姻後の奉公による夫婦の別居も一因であろう。厳しい気候条件のもとで、世帯内生産年齢人口比率を高めようとした世帯戦略が、背景にはあると考えられる(岡田 1999)。人口学的要因と家族的要因とは、有機的に結び合って人口−家族システムとでも呼ぶべきシステムを作っているのである。
西南日本に属する野母村のデータの分析は、まだ緒に就いたばかりである。しかしすでに、世帯構造は比較的複雑、婚姻年齢は非常に高い、奉公は無い(少なくとも記載上は)、婚姻出生率は非常に高い、婚外出生も少なくない、という特徴的なパターンが明らかになった。この地域については、民俗学等の先行業績により、婚前性交渉が頻繁だったことが報告されているが、本プロジェクトによる人口学的知見もそれを裏付けていると言えよう。
以上より、近世日本の農村社会には少なくとも3つの異なる人口−家族システムが存在した結論できる。ただし、こうした違いがどの程度本質的なものであるのかについては、まだ議論が尽きない。東北日本と中央日本の人口−家族システムは、いずれも広い意味での直系家族システムに属し、経済的条件によって異なる人口学的戦略をとるがゆえに、表面的には差違が目立っているにすぎないとする見解もある(Saito forthcoming)。西南日本の人口−家族システムもまた直系家族システムと呼びうるかについては、より慎重な検討を要する。
国内における地域的多様性を論じるためには、国内のみに目を向けているわけにはいかない。ヨーロッパについてピーター・ラスレットやエマニュエル・トッドが明らかにしたように、国内の多様性は国境を超えて広がり、より広範囲における多様性の地図の中に位置づけうる。本プロジェクトの一環として、日本の家のような直系家族制的家族制度をもつ、ヨーロッパとアジアの諸社会の比較研究を行う国際会議を開催した。そこでは、日本の家とヨーロッパの直系家族の共通性と差違、東南アジアから東アジアへと沿岸部にベルト状に伸びるアジアの直系家族地帯の中に日本を位置付ける可能性などが論議された(Fauve-Chamoux and Ochiai eds. 1998)。今後は世界の人口-家族システムの多様性の中に位置づける方向で、日本における人口-家族システムの多様性について探究を進めるべきであろう。
かつてカール・デグラーは家族史と女性史との関係を「不和(At Odds)」と呼んだ(Degler 1980)。家族史と歴史人口学との協動を試みながら、その表現が脳裏をよぎることが無いとは言えない。方法論や関心の焦点がもともと異なる分野の結合は、そうそうスムーズに行くわけではない。
しかし、本プロジェクトを終えた今、家族史と歴史人口学との間の垣根はすでに取り払われたという認識から、われわれは再出発しなくてはならない。本プロジェクトの成果は、人口と家族が有機的に絡み合って、人口-家族システムとでも呼ぶべきものを形作ってきたことを、さまざまな角度から描き出した。したがって、すべての歴史人口学的分析は家族史であるし、家族史は歴史人口学抜きには成り立ち得ない。
本プロジェクトが蓄積したきた膨大なデータの大半は、これからの分析をまっている。それらを用いて、より多くの地域について、より徹底した分析を積み重ねて、日本の人口-家族システムを解明していくことを、今後の課題としたい。
本プロジェクトの主要史料である宗門改帳(実際には、この外宗門人別改帳、宗旨人別改帳等多くの名称があるが、ここでは総称として宗門改帳と呼ぶ)は、家族史研究と人口史研究を同時に進めることのできる理想的な史料である。宗門改帳は最初から「家」もしくはそれに類する社会的単位ごとに記載する形式をとっているので、ヨーロッパの場合のように人口学的イベントの記録と世帯の記録とを異なる史料から拾い合せる必要がないからである(落合 1999a, 蘭・中里 1998)。しかし、もう少し立ち入って宗門改帳の記載単位を「世帯」あるいは「家」と見なしてよいのか問い直すと、簡単には答えを出せない。この問題については、大石(1976)をはじめとして多くの先行業績があり、近年も藤井(1997)や本プロジェクト研究分担者の川口(1990)、高木(1986,1990)らが論じているが、本プロジェクト家族史班もまずこの問題の検討から入った。
具体的には、幕府や藩の出した触書や雛形の収集・分析、同年同村(あるいは近い年)に複数の帳面(宗門改帳と人別改帳など)が存在する場合の比較検討、異なる時代・地域における記載法の比較などを行った。その結果、同年同村についての史料であっても、単位の区切り方(戸主の弟や隠居の家族を独立単位とするか、など)、誰を戸主とするか(父か息子か)などの取扱いが異なる場合があり(山本 1995, 落合・へさき 1995)、また同村であっても時代により方針が変化することがあることが明らかになった。しかし反面、領主・地域・時代・帳面の種類などが同一であれば、ほぼ共通の基準で作成されていたとは言えるであろう。すなわち記載単位は、その地域・時代において、何らかの意味で社会生活上の単位(徴税、村政、居住、生活、経済などの)と見なされていたと考えられる。「世帯」とは共同生活の単位と定義できるので、宗門改帳の記載単位を「世帯」かそれに準じるものと見なして分析を進めることはとりあえず許されるであろう。ただし、異なる地域・時代では基準が異なる場合があるため、地域や時代を超えた比較には注意を要する。また株数が固定していた村では生活の実態と記載が必然的に乖離するので世帯分析は事実上難しい。かねてより速水が指摘してきたように、記載原理における本籍地主義と現住地主義を判別することも重要である(速水 1997,p.56)。
史料が時代・地域により異なる基準で作成されていたという認識は、他方では史料の記載様式それ自体をその時代・地域の家族観の反映と見なして研究対象とする道を拓く。平井は、1780年頃を境に、二者関係の集積として家族を記載する個人単位の記載から、戸主を中心とした家単位の記載への転換が見られることに着目し、これを家的家族観の成立と解釈した。この前後で町触などに示された幕府の方針に変化は見られないことから、平井はこれを民衆のまなざしの反映であるとする(平井 1996,1998a)。
世帯分析の基本は世帯構造分析である。世帯構造はその社会のもつ世帯形成規範を反映すると考えられる。世帯構造分析のためには、その標準的分類法を定めることが必須である。欧米を中心とする家族史研究では、いわゆるハンメル・ラスレット分類が標準として採用されてきたが、複雑な構造の世帯の多い社会の分析には不十分であることがかねてより指摘されてきた。この問題に対しては、まず高木がハンメル・ラスレット分類とそれを批判して提案された全く新しい分類法、および日本の小山隆による分類法を実際のデータに適用して比較検討し、ハンメル・ラスレット分類の合理性と実用性を再評価した(高木 1995)。これを受けて岡田は、日本の世帯の特徴である直系家族世帯を連結家族世帯(合同家族世帯)と区別する「修正ハメル・ラスレットモデル」を提案した(岡田 1996b,1998a,1999)。これは本プロジェクトでのほぼ標準的分類法として定着してきたと言えよう。直系家族世帯と合同家族世帯の区別は、日本のみならず、世界的にかなり確立した世帯構造分類法なので、修正ハンメル・ラスレット分類の提案は世界の家族史研究にとってもインパクトを持つと思われる。
*修正ハンメル・ラスレット分類
1 単独世帯 solitaries
2 非家族世帯 no family household
3 単純家族世帯 simple family household
4 拡大家族世帯 extended family household
5s 直系家族世帯 stem family household (岡田では5)
5j 合同家族世帯 joint family household (岡田では6)
なお、ハンメル・ラスレット分類のもう一つの難点は、単純な基準による分類ではないため、分類に熟練と時間が必要であるということであった。コンピューターによる自動分類法としてはケンブリッジグループの開発したものがあるが、複雑な構造の世帯が多い場合には完璧とは言えないことがわかっていた(Ochiai 1994)。ごく最近になって、本プロジェクトの協力者である侯楊方が、上記の「修正ハンメル・ラスレット分類」を自動的にコーディングするプログラムを開発した。これは日本の家族史研究への大きな貢献である。
日本各地における世帯構造については、地域性についての項で詳述することとするが、世帯構造はただ静態的にとらえればよいというものではない。その社会の世帯形成規範にしたがっていても、世帯の発達段階によってしばしば異なった構造が現出するからである。特に直系家族制においては、直系家族世帯と単純家族世帯の交替が見られ、合同家族世帯も時折出現する。個人の年齢と世帯構造との関係を見ると、直系家族世帯に属する個人の割合は乳幼児期、結婚直後、子の結婚直後がもっとも高く、その間の時期には単純家族世帯に属する割合が高くなるという、三つの山と谷が観察される(Ochiai 1994)。岡田は、東北地方の会津山間部と旧二本松藩領について世帯構造のサイクルを検討し、直系家族回帰型(3,4,5の間の循環)の世帯が優勢であり、これらの世帯は2周期目も同じ型を繰り返す安定性を見せることを立証した(岡田1996b,1998a,1999)。また岡田は、階層による世帯周期の違いにも着目し、旧二本松藩領では上層は直系家族回帰型が特に多く、中層では単純家族回帰型も少なからずあり、下層ではサイクルは見出せないという結論を得た。これが上層での直系家族世帯割合の高さ、下層での単純家族世帯と単独世帯の多さと頻繁な絶家につながっているのである(岡田 1998a)。
世帯構造研究において人口学的制約を考慮することの重要性は、ラスレットに対するバークナーの批判以来、広く認識されてきた。例えば老親と同居すべしという世帯形成規範に従おうとしても、老親が死亡していれば同居しようがないからである。これを式で表現すれば、
同居率=同居可能率*同居実現率
(prop. Actually coresiding = prop. with available kin * propensities to coreside)
すなわち、現実に観察される「同居率」は、「同居可能率」(同居対象になる親族が生存している割合)と、「同居実現率」(同居対象になる親族が生存している者のうち、実際に同居を実行する者の割合)との積であるということになる(Ruggles 1987, 廣嶋 1984)。「同居実現率」は、同居規範の強さ、経済など人口学的条件以外の条件などの反映と考えることができる。(これらの変数はすべて個人を単位としてしか算出できないので、人口学的制約研究は方法的には後述の個人を単位とした研究に属する。)
日本でこの分野の研究の先鞭をつけたのは本プロジェクト研究分担者の廣嶋清志で、廣嶋は戦後日本における同居率と同居可能率から同居実現率の年代的変化を推定し、戦後すぐの日本では同居実現率がなんと100%を超過していたこと、すなわち養子制度により実子がいなくても「子ども」と同居していたことを発見した(廣嶋 1984)。
徳川時代については落合が、当該世帯出身者は現住していなくても生存している限り記録するという稀有な記載方式をとる史料を用いて分析し、高齢期における同居実現率はやはり100%を超過していたこと、経済階層が低くても同居実現率はほぼ100%に達しており、下層でも直系同居を実現しようとする意欲が低かったわけではないことを実証した(Ochiai 1996)。中里も類似した特質をもつ史料を用いて、親子同居の分析に人口学的制約の概念を導入した(Nakazato 1998)。
従来の世帯研究においては、前節の世帯構造分析のように、世帯を分析単位とすることが一般的であった。しかし1970年代以降の家族史研究においては、個人を分析単位とするライフコースアプローチがさかんになった。さまざまな属性をもつ個人の多様なライフコースに注目することにより、社会や家族の多面的な現実を描き出せるからである。個人を分析単位とすることは、同じく個人を分析単位とする人口学的分析との接合も容易にする。このような理由から本プロジェクトでは、個人を分析単位として家族・世帯を分析するという方法を積極的に採用することにした(Lundh, Ochiai and Ono 1996, Alter, Cornell, Nakazato, Jamison and Oris 1997)。
個人を分析単位とすると、世帯(household)構造という概念は、個人の居住形態(living arrangement)という概念に置き換えられる。世帯を個人の束と見て、どのような属性をもつ個人が、どのような親族または非親族と共に世帯を形成しているかという、二者関係を分析するのである。
戸主という特別な個人と他の世帯成員との関係は、戸主に対する続柄に示される。研究対象の人口を戸主に対する続柄別に集計すると、その社会の世帯構造の特色が読み取れる。落合はこの方法を用いて旧二本松藩領と濃尾地方における世帯構造を比較した。ハンメル・ラスレット分類の5分類からはわからない、隠居の頻度や女性戸主の多寡、傍系親族や奉公人の比率などもこの方法によれば知ることができる(Ochiai 1998)。
世帯内の任意の二者関係の分析は、世帯形成のしかたについてのより精密な情報をもたらしてくれる。平井は、嫁と姑の同居期間はあまり長くなかったことを見出した(平井 1998b)。落合は旧二本松藩領における高齢者と息子との同居に注目し、50歳時点での実の息子との同居率は男女ともほぼ5割と意外に低いが、養子・婿養子との同居が2割あることを見出した。他にも娘・嫁・孫などとの同居を含めると、直系卑属との同居は高齢期を通じて男女とも8割以上を維持している。直系家族制社会における高齢者扶養は、実子の代替者を制度的に用意することにより支えられていた(落合 1997)。また中里はライフコースを追って親子の同居・非同居を追跡し、生涯同居以外に一時別居などさまざまなパタンがあることを見出した(中里 1999a)。中里はさらに別居や再同居のタイミングがどのような条件によって決定されるのかをイベントヒストリー分析の手法を用いて検討したが、その結果、親の年齢等の条件よりも経済要因に規定されていることが明らかになり、一時別居と言っても現代的なそれのように親の老化が進むのを待って同居するということではなく、経済的要因によりやむをえずしていたと結論づけた(Nakazato 1999)。
高齢者の子どもとの同居については、さらに双方の婚姻状態を分析に加えると、パタンの違いがより明らかになる。オルターが19世紀ベルギーについて行った分析では、夫婦そろって健在なうちは子どもと同居しないが、片方が死亡して寡婦あるいは寡夫になると、子ども、特に既婚子との同居率が上昇するという、核家族制社会の典型的パタンが見出された(Alter 1996)。これに対して日本では、旧二本松藩領では親子双方がいかなる婚姻状態にあっても親子同居率に影響しないという直系家族制社会の理念型どおりのパタンが見られたが(Nakazato 1998)、濃尾では寡婦あるいは寡夫になると既婚子との同居率が上昇することがわかった(Ochiai 1998)。これは、日本でも地域によって、世帯形成規範が完全に同一ではないことをうかがわせる発見である。
個人を単位とした世帯分析は、居住形態それ自体の研究に限られるわけではない。むしろ居住形態すなわちあるカテゴリーの他者との同居・非同居や、世帯内における個人の位置など、個人にとっての世帯的状況を独立変数として、それが個人の生死や行動に及ぼす効果を分析できるのがこの方法の醍醐味と言える。本プロジェクトの国際比較研究はまさにそうした目的で企図された。
国際比較研究では短期的経済的ストレス(飢饉と米価上昇)の死亡への効果の分析がすでにほぼまとまっているが、旧二本松藩領(東北南部)のデータを用いた日本についての分析では、性別とライフステージによる違いが大きいこと(特に女子の乳児の死亡率上昇ははなはだしい)、世帯内で構造的に非力な位置におかれたものは危険に曝されやすいこと(嫁、傍系親族など)、ある種の親族との同居は防御的効果をもつこと(女児にとっての祖母、男児にとっての姉、高齢男性にとっての妻、高齢女性にとっての子孫など)などが確かめられた(Tsuya, Kurosu and Nakazato forthcoming)。この結果を国際比較の観点から見直してみると、日本および中国では世帯状況や性別からかなり強い影響を受けるが、ヨーロッパ特に北西ヨーロッパではそうではないという対比が見られる(Lee, Wang and Ochiai forthcoming)。
なお、「父の死」(壮年男性の死)が世帯内の女性や子どもの死亡確率にいかなる影響を及ぼすかという国際比較研究において、津谷と黒須は「父(あるいは夫)の死」と「戸主の死」が同義ではない多核家族世帯(multiple family household)の状況を明示的に分析し、多核家族世帯においてもより強く作用するのは核家族の長である「父(あるいは夫)の死」であることを実証した(Tsuya and Kurosu forthcoming)。これは、多核家族世帯の内部において核家族が半独立のサブシステムとして機能している可能性を示唆する興味深い発見である。
本節の最後に、個人を単位とした分析が世帯分析を超える可能性について述べておこう。前項で見たような分析では、「世帯」は個人の行動を説明するための変数として用いられているにすぎないので、世帯とは異なるレベルについて作成した変数をこれに替えることもできるからである。
この分野ではまだ日本についての成果は出ていないが、海外研究分担者であるデローザスとブレスキ、オルターとオリスらは、それぞれイタリアとベルギーについて、同一世帯内ならぬ同一コミュニティ内に居住する親族の有無によって、寡婦の死亡確率や移動確率に影響が出ることを立証した(Derosas forthcoming, Alter, Capron, Neven and Oris forthcoming, Breschi and Manfredini forthcoming)。これは、世帯を超えた親族ネットワークが寡婦の生活を支えるうえで何らかの機能を果たしていたことを実証するものである。
個人を単位とする分析は、定義により世帯等一定の枠内に制限される必要性のないものだが、その利点を生かす研究がすでに出てきたことは喜ばしい。
個人を単位として世帯を研究するということは、世帯がひとつのまとまりを持った社会的単位として機能していた可能性を否定することでは全くない。個人の分析を通して、世帯により個人がいかに統制されていたかや、世帯の戦略と個人の戦略がどう矛盾しどう統合されていたかなどを、具体的に観察することができる。
日本の家族は世代を超えた連続性を重要視するので、継承者をいかに確保するかが戦略のひとつの焦点となる。直系家族制では、跡取りがいなくても困るが、子どもの数が多すぎても問題が生じるので、子ども数を制限しながら絶家しないようくふうする必要がある。黒須と落合は、養子制度によって息子を再分配することが、この問題解決の最大の方法であったことを多摩の事例から示した。人口が増加していない地域では、 非跡取である男子は、ほぼ全員養子先を見つけることができる。(Kurosu and Ochiai 1995)黒須はさらに養子個人のライフコースを追い、養子は嫁より離縁される確率が高いこと、したがって養子がすべて家督相続できるわけではないことを見出した(Kurosu 1997a,1998b)。また、養子は、嫁に比べて、村内から取られる割合が高いこともわかった(Kurusu 1996a,Kurosu and Ochiai 1995)。個々の世帯は、将来戸主になる養子の選択について、慎重に吟味していたのである。
子どもが親の家を出る離家のパタンも、世帯の継承戦略の結果である。黒須は、日本における離家のタイミングは出生順位と性別に強く規定されているという、直系家族制パタンを見出した(Kurosu 1996a,1996c)。また永田は、改名が継承戦略の宣言である場合があることを発見した。息子のうちの一人がその家に特徴的な名前に改名すると同時に他の息子は全く関係ない名前に改名してじきに家を出るというパタンが観察される(Nagata 1997b,1997c, 1999)。
隠居もまた重要な継承戦略である。隠居による相続は、死亡による相続と比べて、相続者も非相続者も特定の年齢層に集中している、相続者は息子か養子で、女性やその他の親族は含まれない、という特徴をもつ。旧二本松藩領では、隠居は、跡取の結婚を待って、その直後から10年間くらいのあいだに行われた(Ochiai 2000)。望ましい時期に望ましい相続者に対して行われる計画された家督相続が隠居なのである。
労動力戦略もまた世帯戦略のひとつであったと考えられる。速水は、東北地方と濃尾地方での結婚年齢、出産パタンおよび世帯構造の違いを、労動力戦略の観点から説明できるのではないかとする仮説を提出した。自然条件の厳しい東北地方では、世帯内労働人口比率を高め、かつ安定させることをめざしていたはずだというのである(Hayami and Ochiai 1996, 速水 1988)。岡田は、速水の説を受けて会津の山村について実証研究を行い、同地域では生産年齢人口(11−60歳)割合50%以上の世帯が8割以上、70%以上の世帯が5割以上を占めており、早婚で世代間の年齢差を縮めることにより、高齢従属人口と幼少従属人口が世帯内に同時に生じにくいようにする戦略をとっていたからであろうと論じる(岡田 1999)。
高木は、世帯の石高と世帯周期との関係を分析し、世帯の石高を決定する主な要因は世帯構成であること、世帯は生産年齢人口に属する2組の夫婦をなるべく長期間保持するよう努めていたこと、世帯周期上それが難しい時期にはこの問題を解決するため傍系の弟妹を世帯内にとどめて一時的に合同家族世帯を構成する場合もあったことなどを見出した(Takagi 2000)。
労働力を世帯内にとどめるばかりでなく、世帯外に奉公に出して世帯経済に貢献させるのもまた労働力戦略である。中里はそうした戦略が旧二本松藩領では経済的に困窮した下層の世帯においてとられることを見出した(Nakazato 1999)。東北地方では質物奉公が多かったことを思い出しておかねばなるまい。東北地方では男女とも結婚後に出るのが一般的で、結婚前に出る濃尾などとパタンが異なるが、東北ではそうすることにより労動力の消失を防いだのであろうと永田は考える(Nagata 1998b)。
労働力戦略であると同時に再生産戦略でもあろうが、斎藤は、近代化が進むまで日本家族の際立った特徴であった離婚と再婚にもっと注目する必要のあることを指摘している(斎藤・浜野 1999、Saito 2000)。
日本における世帯構造の地域性について多くの研究がある。たとえば本プロジェクトの研究分担者である清水浩昭は現代の75歳以上の高齢者の子どもとの同居率の違いから、同居地域、中間地域、別居地域の区別を行った。配偶者と死別し身体も弱ったとき、同別居の傾向がはっきり出ると考えるからだという。清水によると、西近畿あたりを境界に、東では同居傾向が強く、西では別居傾向が強い(清水 1996b,1996c,1997a,1998a,1998c,1998d)。本プロジェクトのマクロ統計班では、明治初期の人口統計および国勢調査から、日本社会の人口学的地域性について成果をまとめているが、その中で世帯構造の地域性についても全国地図が作成される予定である。
明治統計等の分析にもとづき、速水は日本列島は3ないし4地域に分けられるのではないかという仮説を提出している。東北日本と中央日本、そして九州の西端地域である。中央日本は市場経済の発展の程度によってさらに2地域に分けられる可能性があるとする(Hayami and Ochiai 1995,速水 1997)。研究の進んでいない九州西端地域は別にして、東北日本と中央日本の「人口−家族システム」の違いを速水は表1のように整理し、その理由を、自然条件の厳しさのため、世帯内生産年齢人口を高めに安定させようとする東北日本における世帯戦略により説明する。さらに土地売買により労動力と土地の関係を調整する可能性の程度が関係していると言う(速水 1997)。
世帯の地域性については、九州南端の屋久島についての溝口の成果もたいへん興味深い。溝口によると「享保11年の屋久島諸村の典型的な世帯構成は、複数の傍系家族を含む複合家族形態であった」。さらに特徴的なことに、戸主には妻がいるが、傍系親族には妻欠損家族が多く見られる。溝口は生産基盤との関連でその理由を解き明かそうとする(溝口 1999a)。
また、都市の世帯は村落の世帯と全く異なった構造や性質をもち、徳川時代においても、単純な構造の世帯が多い、女性戸主の比率が高い、世帯自体の移動性が高い、などの、一見近代的とも見える特徴があることがわかってきた(高木 1995,浜野 1998)。
本プロジェクトは徳川時代の時系列的史料を用いた分析を中心としてきたが、幕末維新期には1地域にときには数十ヶ村(人口1万人前後)の史料がまとまって残存し横断的分析が可能なケースがいくつかある。これらの史料には単年度であることからくる制約もあるが、地域性研究に資するところは大きい。現在のところ、村数の少ない地域も含めて9地域のデータが分析可能である。
各地域の世帯規模を出してみると、東は大きく西は小さいというパタンはほぼ見出せるものの、例外は九州西端の野母である。明治初期の平均世帯規模を示した地図(速水 1997,図5−2)と比べても明らかに大きい。同図と比べると備中も大きめだが、これらの地域では藩の方針により世帯より大きな単位がお調べの単位として用いられていた可能性がある。
侯楊方のプログラムを用いて修正ハンメル・ラスレット分類を求めると、東の3地域と西端の肥前野母では多核家族世帯の割合が3割を超え、それ以外の地域では単純な1〜3型が5割以上から7割近くを占める。
個人を単位として続柄別人口比率を見ると、傍系親族の比率が備中、野母、飛騨で高いのが目を引く。さらに詳しく見るため年齢層別で出してみると、55歳以上の男性直系尊属の割合が野母と紀州尾鷲で際立って低い。野母では特に70代、80代になっても男性戸主率は80%を下らない。同様のパタンは9地域には入っていない東北地方でも見られることが確認されているが(Ochiai 2000)、九州西端で男性戸主率が高い理由は、無隠居地帯として知られる東北地方とは異なるだろう。隠居分家慣行などとの関連を今後調べたい。女性戸主率はいずれの地域でも低いが、伊勢久居と尾鷲では比較的高い。
以上のように、世帯構造や居住形態にある程度の地域性が認められることは確認できる。しかしそれが世帯システムが違うと言いうるほどの違いであるのかについては、いまだ議論が分かれる。斎藤は、日本の世帯システムは一つであり(西南日本については留保するが)、人口学的条件の違いにより現象形態に違いが出ているにすぎないと言う。斎藤はまた日本の世帯システムは、ヨーロッパのいわゆる直系家族システムが核家族システムに近いのとは異なり、真正の直系家族システムであるとして、ヨーロッパとの違いを強調する(Saito 1998, forthcoming)。
落合は東北日本に属する旧二本松藩領と中央日本に属する濃尾地方の事例を比べて、いずれも直系世帯システムではあるが、高齢者との同居パタンや奉公と婚姻の順序などが異なるため、二つの異なる亜種であると考える(Ochiai 1998)。また西日本の家族は北西ヨーロッパの直系家族と全く異なるとは言いきれず、東南アジアから帯状に広がる「修正核家族地帯(extended nuclear family)」(坪内良博の発言より)が日本西南部から西部まで伸びていた可能性があることを指摘する(Fauve-Chamoux and Ochiai 1998)。
日本の世帯システムをめぐるこれらの問いに答えを出すためには、日本国内における地域性の分析に加えて、諸外国の世帯との比較を行い、日本各地の多様な世帯が世界的な多様性の中にいかに位置づけられるのかを考察せねばならない。
EAPプロジェクトでは武家・商人・農民それぞれの身分の継承・相続研究が進められた。武家の継承・相続に関しては別章が用意されているので、本章では農民の家督の継承と財産の相続に関する研究の成果を中心に報告する。
徳川後期農民の家督の継承と財産の相続に関する研究は、歴史人口学的方法を用いた先行研究を継承するかたちで開始された。宗門改帳を史料とした、歴史人口学のアプロ−チは、主に徳川後期農民社会の実態を明らかにすることがその主眼である。
歴史人口学のアプロ−チを用いた先行研究のなかで繰り返し強調されたことは、徳川後期の家督の継承と家産の相続形態には地域差があり、多様な形態が認められるということである。これは、民俗学や法制史の分野でそれまで定説とされてきた長男子による継承と単独相続は、少なくとも徳川後期の農民社会には当てはまらない、という主張である。
本プロジェクトにおける家督の継承に関する研究は、家督継承者の多様性を既存の研究地域以外でも実証できるのか、家督継承者を決定するプロセスにおいて、どのような家族戦略がみられるのか、といった問題意識からスタ−トし、家督継承のル−ルの発見へと関心は広がっていった。特に、ここで強調したい点は、世帯を観察の単位とする従来の研究方法に加え、新たに個人を観察の単位とする研究が開始されたことである。その理由は明確である。研究の焦点を家督継承者決定のプロセスに求める従来からの研究において、観察の単位は世帯にすべきであった。他方、研究の焦点を継承者そのものに置く人口学の影響を強く受けた研究にとってはその単位を世帯に置く必要はなく、観察単位を個人に置きサンプル数を拡大することの方が利点は大きかったのである。
家督の継承に関する研究は、歴史人口学的アプロ−チを用いた速水融の分析方法に従い、世帯を単位とし、会津山間部地域の観察から開始された(岡田 1996b)。会津山間部では、家督継承者が生前に次期継承者に家督を譲る生前譲渡と、家督継承者の死亡によって生じる死亡譲渡の割合に大きな差は見出せないが、これを階層別に観察すると平均持高8石以上の上層階層では生前譲渡の割合が死亡譲渡よりも10%以上高い。ここから、岡田は、社会的地位が高い階層では家督継承者は、次期継承者を選択し、生前に計画的に家督を譲ろうとしていた、という仮説をたてている。
家督継承者の性別は、男性が家督を継承する割合が約9割、女性が家督を継承する割合が約1割であり、男性継承者の割合が非常に高いことがわかる。男性家督継承者の続柄は、嫡出男子が家督を継承者する割合が最も高く、次は、非血縁者の男性であった。嫡出男子では、特に、一人息子の割合が高く、非血縁者では娘婿・養子の割合が高い。これは、中央日本に位置する美濃国西条村の家督継承者とは異なる傾向を示している。西条村と比較して、非血縁者が家督を継承する割合が高いことが会津山間部の特徴である。嫡出男子がいないか、何らかの事情によって嫡出男子に家督を継承できない、あるいは、させたくない場合には、非親族や親族の中から男性が選ばれ、家督を継承させたものと考えられる。
女性は死亡譲渡によってのみ継承者になる。また、女性の場合、継承期間が男性と比較すると短く、次期継承者としてふさわしい、成人した男性が養子入りしたり、娘婿として縁付いてきた場合、あるいは幼少の男子がある程度大きくなると家督は女性から男性に譲られている。女性は次期継承者が存在しないか、あるいは年少である場合、すなわち、何らかの非常事態がおきた時にのみ、ピンチヒッタ−として家督継承者という役割を果したとみなすべきである、と述べている。
岡田(近刊)は、やはり世帯を単位とした分析であるが、家督継承者決定に至る家族戦略に関心を広げている。これまでの家督継承の研究には他の地域と比較できる分母となる全体が明らかにされていないという本プロジェクトのメンバ−からの指摘があり、これを受けて、家督の譲渡を従来の家督継承者が生前に家督を譲る生前譲渡と、家督継承者の死亡によって生じる死亡譲渡に加え、家督を譲りたくても次期家督継承者が存在しない絶家、これに不明を含め4つのパタ−ンを分母とし、生前譲渡と死亡譲渡の割合を算出した。
その結果、下守屋村の譲渡理由別の割合は生前譲渡が半数以上であることが明らかになった。次に、家督継承者の続柄、継承期間、継承時の年齢などを観察し、以下のような結論を得ている。
被継承者が50歳前後になると、家督を次期継承者に譲る。次期継承者には30歳前後の有配偶の、しかも第一子を設けている嫡出男子が選択される。これがオ−ソドックスなパタ−ンである。嫡出男子に家督を譲りたくても譲れない場合や、譲りたくても嫡出男子がいない場合には異なるパタ−ンが用いられる。嫡出男子がいなかったり、幼少で家督を譲れない場合には、非血縁者や傍系親族の中から次期家督継承者が選択され、生前譲渡で家督は譲渡される。また、何らかの事情により家督継承者が死亡し、上記のような継承者にふさわしいものが存在しない場合には後家などの女性が一時的に継承者になる。彼女らは、会津山間部のケースと同様、嫡出男子が家督継承者として社会的に認められる年齢に達するまで、あるいは他に入夫・娘婿・養子といった家督継承者としてふさわしいものが出現するまで、ピンチヒッタ−としての役割を担う。
次に、観察単位を個人においた研究を見ていくことにしたい。観察単位を個人におき、家督継承者について分析した研究としては、岡田 (1998b)と、Okada and Kurosu(1998)がある。両論文の史料は陸奥国安達郡仁井田村の人別改帳である。前者の論文は、生家世帯にとっては余剰であり、生家世帯から放出される次三男が村の中で果たした役割について観察することと、生家世帯を放出された余剰男子がどのようなプロセスを経て縁付いた先の世帯の戸主になるのかに関心が向けられている。後者の論文は、戸主の死という緊急事態に農民家族がいかに対処したかに焦点を絞り、死亡譲渡をオ−ソドックスな家督の継承である生前譲渡と比較することから、次期家督継承者がどのように決定されるのか、そのプロセスを明らかにしようとしている。
両論文から、村の人口を単位として戸主を観察すると村内の50歳代の男性のほぼ80%は戸主であり、仁井田村で生まれた男性は35歳まで死亡せずに同村に留まれば、ほぼ全員が戸主の地位につけることが発見された。新戸主は、35歳になる前に決定され、長男が選択されるのがオ−ソドックスなル−ルである。戸主交代時には子どものうち新戸主のみが生家世帯に残留することになる。余剰男子は長男が戸主になる前に生家世帯から放出され、村内の次期戸主候補者が存在しない世帯に縁付き、何年か後にその世帯の戸主となる。この場合、前戸主は、計画的に生前譲渡という形で戸主の交代をする。
戸主の期間は、約20年程度が平均であるが、婿や養子は、これよりも早く次期戸主と交代する。戸主にふさわしい男性の世帯員が存在しない場合、やむを得ず一時的に女性が戸主になるが、この場合次期戸主にふさわしい世帯員の獲得が迅速におこなわれている。当時の農民は、このような戸主交代のル−ルを持ち、その時々の状況にしたがってル−ルを使い分けている。しかし、これらのル−ルも必ず実現可能というわけではなく、各状況にしたがって多様な方法が取られていた、と述べている。
以上の、家督の継承に関する研究の結果をまとめるならば、徳川後期の農民家族は長男子による家督の継承を必ずしも実現していたとはいえず、各世帯がその時おかれていた状況に適応し、家督継承者はかなり広い範囲の人々の中から選択されていた。つまり、家督の継承は、ある程度柔軟性のきく、選択の余地のあるものだった、という結論が得られる。 上記の諸研究の中で発見されたいくつかのル−ルにしたがって、当時の農民は家督の継承をおこなおうとしても、ル−ルに従えないような環境におかれることも多かった。家督継承者の続柄の多様性が、このことを物語っている。家督継承者は、人口学的要因に阻まれ、選択の範囲を広げざるを得なかった、のである。
Mary Louise Nagataは、襲名と改名という視点から家督の継承を研究している。Nagata(1997b)は、改名が家督の継承と関わること、親子・兄弟が同時に改名するケースが多いことを発見した。また、Nagata(1997c)では、下守屋村の人別改帳を用いて改名について観察し、ライフコ−ス上のイベントとしては戸主交代と同時に改名が行われるケースが最も多く、戸主は戸主にならないものと比べて改名経験が多いこと、養子・婿として生家から放出された場合、縁付いた先の家の命名パタ−ンに合わせ改名が行われること、また養子は実子に比べ改名の回数が多いことを明らかにした。名前は、永続する家の成員であることを個人にアイデンティファイするために用いられた、とNagataは主張している。
財産の相続に関する研究も、速水 (1992,pp.296−303)の方法を踏襲するかたちで行われている。岡田(1996b,pp.162−182)は、分家創設に関して分析をおこない、会津山間部では、分家は5石以上の石高を有する比較的階層の高い世帯に、同世代に二つの核が並立する複合家族世帯(Joint Family Household)が存在し、しかも世帯規模が10人に近づいた場合に用いられる戦略である、という結論を得た。分家世帯に移動するのは、本家世帯の戸主から見た場合、次男、弟などの傍系親族であり、しかも彼らは妻子を連れて分家するケースが多い。しかし、長男が妻子を連れて分家するケースも存在する。分家創設に関しても、その規則性よりも、その多様性を強調しなければならない。また、分家創設の際には、土地財産の分与がおこなわれている。しかし、分与率はまちまちである。財産分与について、何らかの法則が見出せなかったのは、財産の分与には実際に法則がなかったのか、宗門改帳のみを史料としたことが原因なのか、この研究では不明である。
また、下守屋村の分家創設の研究からも、会津山間部の分析と同様の結果が得られた(岡田1998a)。会津山間部と下守屋村の分析結果から、分家創設は、階層の高い世帯で複合家族世帯が発生した時、これを直系家族世帯に戻すための戦略であったとみなすことができる、と岡田は主張する。
この他に本プロジェクトでは、徳川後期町人の相続に関する研究と明治・大正期の資本家層の相続に関する研究もなされた。浜野(1998)は京都町人の譲状の分析から家屋敷は、長子への相続が一般的であるといわれるが、現実には相続されず売却されることが多く、しかも売却は親類へのものが多いことを検証している。米村 (1996b)は近世までの身分社会が揺らぎ、新しい社会階層が再編されている明治大正期にあって、華族の爵位を得た資本家層がどのように「家」の維持と確実な相続をはかったかを家憲制定に着目し論じている。
本プロジェクトの継承と相続の研究は、主に東北地方の家督の継承を中心に研究が進められてきた。観察の方法については試行錯誤の段階を脱し、ほぼ定着してきたとみなせる。今後は地域差や共通点の解明をするために、研究の地域的な広がりを持たせることと、同地域内においては階層による差が見出せるのかどうかを明確にすることが求められる。さらに、地域差という意味において、同じ農村の比較ばかりでなく、都市と農村の比較も必要になってくるだろう。
相続に関しては、分家の創設、創設時の財産の移動が観察されたのみである。今後は、相続の研究にも力を注いでいかなくてはならない。特に、宗門改帳や人別改帳は土地の貸借などを記載することが目的の史料ではないため、分析には限界がある。そこで、他の史料を合わせて用いた詳細な研究が早急に行わなけれることが望まれる。
家族史班における研究の第一の目的は「本来不可分であるべきはずの家族史研究と歴史人口学研究とを日本で初めて本格的に結合することで、これまでの日本の家族史研究では不十分だった大規模数量データの理論的分析を組織的に行い、人口学的家族史研究の基礎を打ち立てる」ことであった。ライフコース研究は、そのアプローチにおいても、方法論においても、この目的を果たす上で非常に重要な役割を果たしたといえよう。本章では、まず「ライフコース」研究のメリットを確認し、近世史料にどのように適用したかを明確にした上で、特に子どもが一生のうちはじめて経験する移動である「離家パターン」の研究を例にあげ、これまでの成果と今後の展望を整理していく。
ライフコース・アプローチは、1970年代以降アメリカの社会科学分野において急速に発展してきた。日本においても家族社会学の研究者を中心に早い時期からその重要性が認識され、概念や調査結果の紹介がなされていきた。ライフコース研究の第一人者であるグレン・エルダーは、ライフコースを「個人が年齢を経ながら出来事を経験していく人生行路」と定義している。時代や空間を超えて適用できる概念である。前近代の場合、庶民が経験した出来事(「イベント」と呼ぶ)としては、現代と変わらない、出生、結婚、出産、死亡、前近代家族行動の特徴であった、養子、奉公、分家、継承などがあげられる。これらはもちろん、これまでの家族史研究あるいは、歴史人口学研究で多かれ少なかれとりあげられてきた研究テーマである。しかし、従来の研究では、両者の研究方法の異質性から、テーマの展開も方法も限界があった。たとえば、歴史人口学で結婚や奉公を扱う場合、その数量的動向は明確にされても、なぜそのようなパターンがうまれるのかという問題を家族システムの中にとらえて考慮されることは少なかった。反対に、家族史の研究で、日本の家族システムをとらえるために家督の継承を扱う場合、世帯を単位として分析されるために、そのサンプル数に明らかに限界があり、実証的に信憑性に欠ける結果になってしまうことが否めなかった。ユーラシアプロジェクトで導入したライフコース分析の方法は、家族や世帯を集団として一まとめにしてみるだけでなく、単位をその中にある個人の様々な経験の束とすることによって、これまでにない、前近代庶民の家族・世帯・個人の行動についてよりダイナミックな分析を可能としたのである。つまり、家族史的問題について人口学的手法を利用することによって、より実証的に分析し、前近代に生きた息子、娘、女性、高齢者、離死別者などの生きざまを家族システムや社会経済状況のなかにとらえる試みがなされたということである。
これまでの近世庶民の研究においても、宗門改帳や人別改帳などを利用したライフコース的研究はあった。個人が加齢とともに体験するイベントの詳細と個人の世帯の属性(世帯の持高、戸主との続柄、きょうだい構成等)を追うことのできる近世史料は、まさにライフコース研究のためにあつらえたような貴重品である(浜野 1997)。にもかかわらず、これまで本格的にライフコースアプローチとして実証(数量)的研究に宗門改帳や人別改帳を利用した研究が少なかったのは、何万人もの個人の一生を網羅する優れた史料がその詳細さゆえに技術的に活用できなかったことが大きいだろう。ユーラシアプロジェクトでは、情報革命の恩恵を受け、大量の史料をコンピュータに入力整理し、ライフコースアプローチに絶え得るデータとしての整理を行った(整理方法やデータ管理の方法については情報処理班報告を参照)。これによって、先にあげたさまざまなテーマを個人の視点から捉えるという試みがなされた。
本プロジェクトで取り組まれたライフコース研究は多岐にわたる。例えば、家督の継承の一手段として世帯を単位にとらえられてきた「養子慣行」について、養子が本当に継承者になるのかという養子個人の体験から分析がなされた(岡田 1998b,Kurosu 1998b)。これによって、養子が必ずしも継承者にはならなかったこと、むしろその道は険しく、継承者になったとしても、息子が生家の継承者になる場合よりも、継承者である期間が短いことなどが生命表分析などからあきらかになった。養子が嫁と同じくらい、あるいはそれ以上に離縁を経験していたということも、生命表分析を適用して明らかになった新しい知見である。また、従来クロスセクショナルで生態的にしか捉えられなかった世帯形成に関わる行動も一個人が同居にいたるか否かという状態の変化に注目することによって高齢者の同居形態や嫁と姑との居住形態がとらえなおされた(Nakazato 1998,1999,中里 1999a,平井 1998b, Ochiai 1995,落合 1997)。その同居の継続期間や理由などの分析から、息子の再婚離婚による様々な同居形態が浮き彫りにされた。また、生命表やイベントヒストリー分析を適用することによって、出生、死亡、結婚などについても対象となる個人が当該時点から1年間の間(史料上の間隔)にこれらのイベントを経験する確率が推計された(Tsuya and Kurosu 1999, forthcoming a,b,Tsuya, Kurosu and
Nakazato forthcoming ,Kurosu and Tsuya 2000)。これによって、個人のイベントを経験する確率が、その個人が所属する村や世帯の経済状況、家族状況によって、どのような影響をうけているのかが明らかになってきた。さらにそれらの確率が単純家族システム(simple family)を持つ社会、複合家族システム(joint family)の社会、そして直系家族(stem family)システムの社会においてどのような相違があるのかというユーラシアプロジェクトの国際比較(ベルギー、スウェーデン、イタリア、中国、日本)も進行中である。
世帯の状況と個人の体験するライフコースのつながりは密接である。そして個人から世帯を見直すことによって、世帯の構造の中に秘められたさまざまな計画や戦略が浮き彫りとなり、近世庶民の行動がいかに当時の環境や社会経済的状況、そして世帯の中でどのような位置にいるかによってその後のライフコースが変化していく様子が浮き彫りとなってくる。これは、先にあげたどのイベントを切り口にみても同じである。ここでは、「離家パターン」の研究を中心に家族システムと個人のつながりついて、ライフコース研究の成果の詳細を整理する(岡田 1996b,Kurosu 1996a,c)。
「離家」とは、結婚や養子、奉公などのために子どもがはじめて家を出て移動する人口学的な指標であるが、この切り口から、家族行動を左右していた庶民の行動規範、あるいはルールのようなものを探ることができる。つまり、離家という限りなく人口学的なイベントであるが、世帯形成のルールによって決定的に違ってくるのである。例えば、リチャード・ウォール (1978)は、「いつの時点か必ずすべての子どもが離家する」という前提の下に18・19世紀イギリスの家族を分析した。これは明らかにイギリスの単純家族システムのルールである。この前提は日本の場合にはあてはまらないが、離家パターンの実態を探ることで、前近代の庶民がどのようなルールにのっとって行動していたのかが明らかとなり、さらには、直系家族システムが存在していたのかどうかという問題に迫ることができる。これまで、家族史の研究では「誰が家督を継承するか」、「どのような世帯構造か」という世帯を単位とした分析が主流になっていた。これらの分析から実態は把握できても、計画性やルールを見出すことは難しい。さらに、単位が世帯であるために、統計的に安定した結果を得るためにはサンプル数を増やしていかなくてはならない。そこで、分析の切り口を個人のレベルにかえ、何歳で離家するのか、何のために離家するのか、だれが離家するのか、というような単純な問いから分析を始めるのである。
明治初年の多摩戸籍や二本松藩2カ村(1716〜1870年)の人別改帳を利用した分析結果によると、あきらかにイギリスの単純家族システムのルールとは異なるルールが明らかになった (Kurosu 1996a,c)。生存きょうだいのうち、誰か一人(ただし一人のみ)が必ず生家に残って跡継ぎとなり、その他のきょうだいはすべて離家するというルールである。この場合、生存しているものの中で、長男が残る場合が多い。しかし、生存きょうだいが他にいなければ、あるいは弟が幼少だった場合などは、女子でも跡取りとなって家に残る傾向があることも明らかになった。さらに、離家する子どもがいない場合や、女子のみの場合には反対に「養子」が取られていたのである。ということで、乳幼児死亡率の高い当時にまずは生まれてから生存できるかどうかという問題はどの世帯もが共有するのであるが、それを前提とすると、自分が男であるか、女であるか、そして生存きょうだいのどこに位置しているか、つまり、性別、出生順位、そして(生存)きょうだい構成によって成人にいたるところのライフコースが明らかに変わってくるということがわかった。
さらに、どのようなタイミングで離家が起こっているかをきょうだいとの関係からみていくことによって、農民が家族の限られた資源を効率的に利用するためにいかに計画的な行動をとっていたかが浮き彫りにされる。離家のタイミングは世帯の中での構成員の年齢的・性的バランスを保とうという行為としてみられるのである。この計画性が顕著に現われるのが結婚を契機とした家族成員の入れ替わりである。例えば、跡継ぎの結婚前後2‐3年の間に姉妹が離家する(嫁に出る)事が明らかになった。しかし、姉妹の離家が跡継ぎの結婚を契機としているのに対して、次三男たちの離家のタイミングは跡継ぎの第一子からそのあと約8年の間に、養子や奉公移動という形で起こっていた。女性の離家とは違って、明らかに男子の場合は次世代の確保に中心が据えられていたようである。これら、世帯に起こった(きょうだいの)結婚や出産、戸主の交替などのイベントが個人の離家のタイミングにどのような影響を与えるかというイベントヒストリー分析を適用した多変量解析も進行中である。
このように、世帯の人数をその世帯経済に一番好都合な状態で保とうとするメカニズムが浮き彫りにされてくる。これはT.C.スミス(1977)のいう直系家族の「開放と閉鎖の方策(hold and release
policy)」が実行されていたことを裏付ける。しかし、本プロジェクトの分析結果からは、経済的理由のみでなく、社会的な理由の混在も示唆している。例えば、嫁と小姑の衝突を避けたり、世帯内での物理的スペースを確保するためであったり、仕事の配分を保つこと、そして継承者の確保という問題である。ここで、離家パターンの研究と本プロジェクトにおける、たとえば出生や養子研究などと関連性もみられるだろう。徳川後期の庶民の出生率は、歴史人口学で明らかにされているヨーロッパ諸国の数値よりも非常に低いのである。全体的に見れば、女性ひとりあたりの子ども数はせいぜい5人ぐらいである。平均的に見ると、5人出生したものの、成人まで生存する人数は3人、おおまかにいって、そのうち一人は家に残り、一人は嫁にいき、次男は養子にいくという全体像が見えてくる。徳川後期の農民の間で行われていた養子慣行は、子あまりの家から子のない家(男子のいない家)へと男子がうまく移動できるチャンネルとなっていた(岡田 1996a,Kurosu and Ochiai 1995)。そして、この計画的な行動は、跡継ぎを確保しなくてはならないが、余るほど子どもは必要ない、というかなり意図的な家族行動につながっていたとも解釈できる。その意味では、近世の家族を研究する場合、人口学的な出生のみでなく、養子慣行も含めた社会的再生産というフレームワークで再考することが大切である。これらの点は時系列的な詳細データである宗門改帳や人別改帳の利用によって今後ますます明らかになってくるであろう。ユーラシア・プロジェクトではライフコース研究の方法の確立に重点が置かれ、東北農村の史料を使った分析に留まった。今後は、研究の地域的な広がりをもたせ、地域差や地域間に共通してみられる特徴などを明らかにしていくことが課題となる。大量の史料を整理分析していかなくてはならないライフコース研究は非常に時間とコストがかかるものの、人口学的研究と家族史研究を結び付けるかなめとなるものであり、そこから浮き彫りなる数万人年の徳川庶民の一生は、われわれに多くの示唆を与えてくれるであろう。
武家・公家班では、大名および武士(後者はことばの正確な意味では武家の外側に位置付けられるが)を対象として、いくつかの問題を取り上げて検討した。プロジェクト発足当初には公家に関する分析も予定されていたが、分担者の都合などで実現しなかった。また、『寛政重修諸家譜』を使用して、データベース構築の作業が進められた。大名および武士に関する研究の進行状況は以下の通りである。
第二次世界大戦後、わが国の「家」制度は法的には劇的な廃止を経験したが、その心性や慣行は、現代の日本人の生活においてさまざまな場面で生き続けている。論者は、わが国の「家」制度の源流を武士階層の「家」に求め、武士の「家」における家系の継承について、長男を中心とする伝統的相続制度のたてまえと実行との間の乖離に着目し、その補完の実際について分析を試みてきた。補完のシステムこそ日本の「家」制度の本質的部分を構成すると考えたからである。これまでの検討の過程を略述すると以下の通りである。
本プロジェクトに先立って「長子相続制度における補完システムの比較研究(1)、(2)」(『龍谷紀要』9巻2号、1987、および『龍谷紀要』12巻1号、1990)、「宮古島における家系の継承と人口学的要因」(『龍谷紀要』15巻1号、1993)、「17、18世紀の南部藩家臣における家系の継承−長男による家督相続の少なさをめぐって−」(『龍谷紀要』16巻1号、1994)を発表している。本プロジェクトにおいては、 この見方を日本各地の諸藩の事例の検討を通じて発展、拡充することを試みた。
1)「鹿児島島津藩における家系継承をめぐって」(坪内 1995)においては、鹿児島島津藩における家系継承をめぐって家督継承者の先代家督者との関係、異姓の家からの養子の背景、島津義弘の次代家久およびその継嗣光久の男子の養出の事情について観察を行なった。島津藩では異姓養子の多さが目立ち、家系継承の政治的背景との関わりに注目すべき場合があることが分かった。
2)次に舞台を加賀藩に移して、「加賀前田藩藩士における家系継承」(坪内 1997b)において、加賀藩藩士の「家」における事情を17世紀および18世紀を中心に考察した。加賀藩藩士における際立った特徴は、長男による継承の少なさ、平均男子数の少なさ、そして鹿児島を上回る養子の多さである。加賀藩では同姓からの養子も相当多く、男子数の少なさと、養子の導入とが直結しているようにみられる。
これまでの観察を通して、18世紀においては17世紀に比して長男による継承がかなり減少しているという傾向が見いだされている。
3)「秋田佐竹藩藩士における家系の継承」(坪内 1997a)において、ケース数が多く得られた秋田佐竹藩藩士の家系継承のより詳細な継時的分析を行い、それが18世紀に発生した幾度かの飢饉などを契機にして生じた高い死亡傾向に関連して説明できる可能性があることを示した。
4)また、「近世における家系の継承と人口学的要因−会津藩藩士の場合−」(坪内 1998b)で、東北地方の会津藩に関する360巻におよぶ藩士の家譜資料を利用して、石高階層別、期間別等に詳しく分析した。会津藩で特徴的なのは階層の高さに応じて子の数が多く、長男による継承の割合の高さとの関連がみられる。時代別にみると17世紀では不明瞭であった階層差が18世紀で明確になる。婿養子による家督継承が長男による継承の減少に対応して増加してきた。養子による継承も重要であるが、危機において増加した後に急減しており、婿養子による継承と微妙な拮抗関係を示しながら長男相続制度下の補完システムの一部として作用していることが分かった。
5)西日本において、佐賀鍋島藩藩士に関する分析を試みたのが、「佐賀鍋島藩藩士における家系の継承と人口学的制約」(坪内 1999)である。佐賀藩では子の数が比較的多く、実子による継承が比較的自然なかたちで行なわれてきたようである。男子による継承が困難な場合には、女子に婿養子を迎える形で、実子という人的資源がより有効に利用されてきた。ある程度類似する傾向が、東北地方では会津藩において見いだされるものの、東北や北陸の諸藩の特異性も指摘することができた。
6)西日本にもう一つの観察点を加えて、萩藩藩士を対象にその位置付けを試みたものが「萩毛利藩藩士における家系継承と人口学的制約」(国際日本文化研究センタ−紀要『日本研究』に投稿中)である。山口県立公文書館に保管された萩藩譜録を利用することによって、西日本において初めて多量の継承事例の分析を行なった。萩藩藩士に関する分析は、17世紀から18世紀にかけて日本の武士の間に継承に関して共通した慣行が成立していたことを確認する作業の一端を担うことになった。この時期の日本の武士の間では時代差、地域差、身分階層差を越えて、長男による家系の継承を軸にして、家族、親族の営みが行なわれてきた。萩藩藩士の場合を含めて、これまでの分析では、時代が下がるにつれて子の数が減少したことと、補完措置として婿養子、養子などを受け入れたことを対応する形で示すことができた。17世紀における萩藩藩士の婿養子に対する選好は、かつてこの地方に婿養子に対する慣行が成立していたのではないかという解釈を下したくなるほどである。これだけ強い選好は他の地方では見いだされない。このように高かった婿養子への選好が、時代を経て平準化されるという道筋を考える必要があろう。
7)各藩の藩士階層における家系の継承の分析は上述の通りであるが、武士社会の最上層ではどのような様相がみられるかを考察したのが、「大名における家系継承と人口学的要因 −10萬石以上の大名家の場合」(坪内 1998a)である。『寛政重修諸家譜』に収録されている10萬石以上の大名家38家に関する分析の結果、先代の生した男子の数の多さにもかかわらず長男を含め実子による継承が少ないこと、および、17世紀から18世紀にかけて男子数の増加にもかかわらず実子による継承の減少が認められた。また、婿養子が17世紀、18世紀とも少なく、同族内からの養子の多さが確認された。これは藩士の場合と異なる点であり、大名においては継承にかかわる女子の役割がきわめて低いといえる。大名においては男子中心主義の発達と同族の多さを背景に一方では婿養子の少なさが、他方では同族養子の多さが指摘され、血統重視の傾向が確認された。
研究分担者は、これまで武士とくに大名家臣を対象とした歴史人口学的研究を進めてきた。それらを踏まえて、本研究では大名家臣の上位に位置する大名や、大名家臣のなかでも知行取りの下位に位置する蔵米取りについて人口学的に検討することを第一の目的とした。あわせて、武士人口を考察する際に使用されることの多い系譜のデータベース化を試みることを第二の目的とした。
大名人口に関しては、宮内庁書陵部所蔵の「華族系譜」を史料として、幼児死亡率を推計した。対象とした1671年から1850年に生まれた子供の乳幼児死亡率は378.4パーミル、とくに1821〜1850年の死亡率は547.8パーミルと高かった。10人のうち約5人半は5歳になる前に死亡したことになる。1671〜1850年の幼児死亡率は229.6パーミル、乳児死亡率は193.2パーミル、そのうち1821〜1850年の幼児死亡率・乳児死亡率はともに高くそれぞれ297.4パーミル、356.5パーミルであった。これは17世紀後半に生まれた子供から乳・幼児死亡率が上昇し始めた結果である。死亡の季節性および地域性から検討した結果、大名の乳幼児死亡率が上昇した原因の一つとして、都市において人口密度の高い町人居住区域における消化器系疾患が人口密度のより低い武士居住区域に広がったことが考えられる。
この大名人口を分析するにあたって出生・死亡・婚姻・相続に関する情報を市販のリレーショナルデータベースを用いて入力しデータベースを作成した。その過程で系譜をデジタル化する場合に考慮すべき点がいくつか課題として残された。フィールド数を事前に決定すると分析の範囲が制約される。人口や家族に関する考察のみに限定し、最適な構造化が実現できたとしても、視点を変えたさまざまな分析のためには、フィールドを限定することなく系譜に記載された情報をそのままのかたちでデジタル化した方がよいのではないかと考えた。系譜に記載された情報のかたちを崩さないためにはテキスト型データベースの作成、次いで目的に応じた2次データベースを作成する必要がある。また、大量の情報を入力する際には、入力が容易でしかも専門的な知識を有しない入力者であってもどのように入力すべきかを判断しなくてもよいインターフェイスが必要である。系譜に記載された親子関係の入力は複雑な場合が多いことから誤入力が生じやすいからである。そこで史料とする系譜を見ながら入力でき、しかも親子関係が入力時点で明瞭であるという特徴をもつ入力フォームを市販のアプリケーションソフトを用いて作成した。すでに徳島藩蔵米取100家系に関する情報は入力されている。さらにそれらの情報は一つのテキストファイルにまとめられ、出生力を分析するための二次データベースを完成させることができた。
残された課題は、大名に関して成人以降の死亡性向や出生サイドからの考察をするとともに徳島藩蔵米取の人口学的な特徴を明らかにしたうえで、それらを比較検討することである。
武家・公家班に関連する作業としては、上記の他に、研究協力者磯田道史が、足軽などの下級武士を対象として、家系継承の実証的研究を試みたりしている。また、一部データベース化された『寛政重修諸家譜』を利用して、お目見年齢の変化を検討する作業が、情報処理班(小野芳彦)によって試行されている。
本章では「出産・子育て」に関する研究業績について報告するが、主要には、「懐姙帳研究班」の研究業績について報告することとする。
日本の歴史人口学を支えてきた宗門人別改帳(以下、本章では宗門改帳とする)には、「出産・子育て」の把握という面での問題がある。というのも、宗門改帳は、出生や死亡というイベントごとの記載ではなく、年に一度の書上調査であるため、前の年から次の調査までの一年間に生まれ、その間に死亡した乳児が原則として欠落するという問題をかかえているからである(友部 2000)。そこで懐姙帳研究班の目的の一つは、この乳児死亡が宗門改帳では完全に補足されないという問題を、他の史料、とりわけ懐姙(懐胎)書上帳その他、妊娠・出産に関わる史料によって克服することにおかれた。
しかし、懐姙書上帳や過去帳など様々な史料から、乳児死亡の水準を推計することができたとしても、とりわけ堕胎・間引きといった出生制限をめぐる事柄は、数量的把握が困難な事柄に属する。そこで懐姙帳研究班のもう一つの目的は、当時の社会状況や、生命観、生殖観、子育てに関する人々の心性といった側面から堕胎・間引きの問題に迫る心性史研究と人口史とをつきあわせることで、「出産・子育て」の問題を把握することにおかれた。
その結果、まず明らかになったことは、近世後期の低出生力という問題である。近世後期の出生率が前期に比し、著しく低下したことは早くから速水融の信州諏訪の事例から指摘されていたが、宗門改帳の示す出生力は、登録の過小評価を考慮しても、前工業化期西ヨ−ロッパ農村のそれに比較して格段に低いことが明らかになった。江戸時代後期に妊婦を対象にして行われた懐姙(懐胎)書上帳によって、流産、死産、乳児死亡、出生に接近することを試みた結果、東北南部、北関東の懐姙書上帳から判明する乳児死亡率は予想されるほど高くはなく、せいぜい出生1000につき180から200程度であることが明らかとなった。この水準は明治後期の水準に近く、また前工業化期西ヨ−ロッパ諸国と比較するとイングランドの水準にほぼ等しく、比較的低いほうに属する(鬼頭 1997b、 1997d)。生存期間別乳児死亡統計をもとにシュミレーションを実行した結果も、宗門改帳における乳児死亡の補足率は予想されるよりも低くはない事が指摘されている(木下 1996)。このように、国際比較においても近世後期の低い出生力が証明されたことは、近世日本では子沢山から間引きをおこなっていたという、常習的な出生制限の慣行として間引きをあげる従来の通説や、日本史あるいは日本経済史に根強い、間引きの広範かつ頻繁な実施による人口制限仮説に対して、実証的かつ根本的な疑問を投げかけることにもなった(友部 1996b)。
では、近世日本農村の出生力が、なぜ、かくも高いとは言えない水準にとどまったのか。そこで、出生力を構成する要因から、近世日本の低い出生力レヴェルの内容を分析、考察することが試みられた。そのなかで検討すべき要因として浮かびあがってきたのは、リプロダクテイブ・ヘルス/ライツに関わる1)栄養水準、2)労働の強度と時間、3)母親の疾病、4)堕胎・間引き、5)避妊、6)性行為に関わる禁忌、7)母乳哺育の習慣などである。以上にあげた要因のなかでも、とりわけ、近世農村に特徴的な要因として指摘できるのは、3)の「母親の疾病」とも関わって出産に関わる母性死亡が高いこと、また、おそらくは2)の「労働の強度と時間」と関わって比較的高い自然流産率が見られること、7)の長い母乳哺育期間の三つの要因である(友部 1999b、 2000)。北関東の懐姙書上帳の分析結果からは、自然流産率が、同時期の西欧に比し、かなり高いことが明らかとなったが、この分析結果は、潅漑施設のない田圃(深田、沼田)で腰や胸まで浸かりながら田植え作業を強いられた近世農村の女性たちが妊娠初期に自然流産する確率の高さを物語る(鬼頭 1995b、 友部 2000)。また近世中期以降、長期の母乳哺育が勧められ、母乳に代わる栄養源がほとんど存在しない日本では長期授乳は長い間の慣行であったこと(鬼頭 1995a, 1995f)、さらにこの長い母乳哺育期間が出産後の妊娠不可能期間を決定する主要因であること(友部 2000)が明らかとなった。
また、以上のような出生力の構成要因というマクロな側面からの接近にくわえて、心性史の側面から、近世後期の低出生力への接近が試みられたが、とくに4)の「堕胎・間引き」に関して詳細な研究がおこなわれ、成果をあげた。その成果は、1)新しい史料の発掘と史料の新しい読み取りの方法の開拓、2)「堕胎」「間引き」の概念の明確化の二点にまとめることができる。
堕胎・間引きという出生制限をめぐるもっとも最初の研究、いわゆる斎藤修の整理によれば、出生制限の要因を子沢山や経済的困窮に求める「第一世代」の研究(斎藤 1993)は、事件の当事者ではない同時代の為政者や知識人の見解、伝承と禁令、あるいは絵馬などの民俗資料に依拠するものであった。そのため、実態についても、人口停滞に与えた影響の度合いについても不明なことが多く、また、従来から、当事者の史料ではないという批判がみられた。しかし、本プロジェクトのなかで、今まで「子殺し」という事の性格からして皆無だろうと思われてきた当事者による記録、「角田藤左衛門日記」をもとに、経済的困窮のための出生制限という通説への再検討を迫る反証がなされたこと(川口 1998b,太田 1998a,1999b)は特筆すべきである。そこでは「子返し」とも呼ばれる出生制限の方法は、従来言われていたような飢餓や子どもに対する無関心から起こるものではないことが明らかになった。さらに、今後の堕胎・間引き研究の課題として、堕胎・間引きは、多様な具体像を持つ出生制限の一つであること(川口 1998b)、また出生制限をめぐる様々な慣習や、家内の労働力をよりよく管理しようとする努力や家族の生計への配慮といった「家」の存続に向けた努力などの文脈のなかで理解されなければならない事柄であること(太田 1998a)、さらに人々の命に対する感覚との関わりでも解明されねばならない事柄であること(太田 1998a,1998b)などが明らかとなった。
しかし、この当事者による記録という点で希有な記録である「角田藤左衛門日記」は近世前期の史料である。おそらく、人口が停滞し、人口増加政策として堕胎・間引き取締りが始められ、堕胎・間引きが罪悪視される近世後期になると、当事者の記録の残存は望めない。こうした史料的制約のなかで取り上げられたのは、二種類の史料群である。一つは、村落に残された民衆の日常生活と近いところにあった史料群(村方役人層の書いた地方文書、在郷知識人の文書や彼らが作成し、あるいは再版した間引き教諭書、在村名望家層の日記や彼らが所蔵していた養生書、民間療法の写本など)である(太田編 1997)。もう一つは、堕胎・間引き禁止政策の一環として取り組まれた出産管理政策のなかで、支配層と民衆がぶつかるところに残された史料群(死胎披露書、懐胎届、出産届、処罰の記録など)である。死胎披露書など、今までその存在は知られていたものの用いられることのなかった史料群や、今までは迷信、俗信として歴史の史料とは認められていなかった史料群の発掘と利用が試みられた。堕胎・間引き禁止政策のなかで作成された支配層の史料をいわば逆手にとり、またそれらの史料が、既に支配層の意向や、共同体の意思といったフィルタ−を通っていることに充分に注意しながら、そのなかから、民衆の様々な声を聴き取る試みがなされた(太田編 1997; 沢山 1998a, 1998b)。
そのなかで、近世後期の民衆女性の出産や堕胎・間引きさらにはその根底にある女性の身体観や、胎児観をも解明する糸口が拓かれた。従来の堕胎・間引きをめぐる通説では、「農村では、母親の労働力重視から間引きが、一方堕胎は都市に多く、不義密通による妊娠を隠すためや未婚女性が選びとったもの」とされてきた。しかし、村における正式の婚姻関係のなかにある夫婦においても堕胎がおこなわれた可能性が高いこと、その背後には、間引きよりも堕胎のほうがましとする生命観があるらしいこと、近世後期の出生制限の手段は間引きよりも堕胎だったのではないかということが明らかとなった。(沢山 1998b)
人口史と心性史をつきあわせていく試みがもたらしたもう一つの成果は、「堕胎」「間引き」概念の明確化がなされた点である。従来の日本史学では、「堕胎」と「間引き」は並列されることが多かったが、両者はまったく別な概念であること、日本史学と人口史が対話を重ね、また欧米の出生力研究との比較をしていくうえでも、「堕胎」と「間引き」の概念の違いを明確にする必要があることが明らかとなった。日本史で今まで言われてきた「間引き」は、人口学の概念ではストッピングに該当し、その夫婦は「早期出産停止者」ということになる。彼らは、「余分な」子どもを残さないために、万一妊娠した場合も、それが出生につながらないように堕胎をし、ついには嬰児殺しにおよぶ。それに対して、一般的に出生間隔を出生順位の低いときから均等に長期化することにより、完結出生児数を少なくしようとする夫婦の行動を人口学ではスペ−シングとよぶ。近世農村の出生間隔は、東北農村の一部で、夫婦の意に反して「少子」でありながら「早期出産停止者」にならざるを得ない状況がみられたものの、その多くは出生間隔が均等に長いスペ−シングパタ−ンであることが明らかとなった。一方「堕胎」は、ストッピング、スペ−シング双方で使われた可能性があるが、とりわけ近世農村の出生がスペ−シングパタ−ンであるとすると、堕胎の問題に、いかに接近するかが重要な課題となる(友部 1996b)。心性史と人口史の対話のなかで「堕胎」「間引き」概念の明確化がはかられると同時に、「堕胎」の問題にいかに接近するかが今後の重要な課題であることが浮かびあがってきた。
以上が、「出産・子育て」をめぐる主な研究成果であるが、残された課題は、近世後期の出生率が低水準であったことをさらに多様な角度から明らかすることである。そのためには、「出生」という一時点を問題にするのではなく、性行為、妊娠、出産、子育てという一連の文脈のなかで明らかにすることが求められる。すでに、近世の出生力が低水準であったことを、性行為や避妊の側面から解き明かしていこうとする試み(太田 1997a)や、日記、過去帳などを用いて乳幼児死亡に接近しようとする試み(Kawaguchi 1998)がなされているが、今後さらに、こうした研究をすすめる必要がある。また、出生力の近接要因のなかでも、特に注目された「母乳哺育」や比較的高い「妊娠不能比率」「自然流産率」については、女性の労働環境や出産前後の状況といった「母性」をめぐる状況を、女性の地位や家族の行動、意識、家や村落などの共同体組織といった「母性」をめぐる環境の構造のなかで、またその歴史的変化を明確にする課題が残されている。さらに支配層の懐姙調査については、関東農村、東北農村、西南日本の津山藩について明らかにされたものの(鬼頭 1996c, 沢山 1998a)、地域による出産管理の違いや、懐姙書上帳の形式の違い、その地域間比較と類型化をおこなうという課題や、出産管理政策と人口現象との関連を問うという課題が残されている。また、出生制限の背後にある生命観を、さらに人間の生と死という死生観のなかで明らかにする作業が残されている。近世後期の出生率が低水準であることをめぐっては、以上のような総合的、多面的な検討が求められている。