1 歴史人口学       

1.1 総論                 速水 融  

1.2 史料収集               鬼頭 宏     

1.2.2      西日本地域における宗門改帳の収集   

村山 聡    

1.3 史料検討               松浦 昭 

1.4 出生                津谷 典子    

1.5 死亡                木下 太志    

1.6 結婚                黒須 里美    

1.7 人口移動               川口 洋    

1.8 都市人口               浜野 潔    

 

1.1 総論                                  速水

1.1.1 EAPプロジェクトと歴史人口学――地域性の発見

 いかなる社会にも、人の住み方には、それぞれ独自の性格がある。同じ町や村の中でも、職業や階層、住居の場所、習俗によって、生き方は異なる。いま、その問題は外に置いて、地理的な視点から人の住み方を考えることにしよう。

  たとえば、日本の奥羽地方と九州では、住み方は大いに異なっているし、その違いは過去に遡るほど大きかった。現在では、近代国家の持つ強制力によって、全国に共通する法制度が敷かれ、法に違反するような地域的特性は消えた、といっていいだろう。それでも、習俗や法の及ばない分野では、地域地域の特性があって、東京と大阪では、料理や服装といった法とは縁遠い分野、そして親子関係や女性の地位といった法との接点においても相違がある。このような人の住み方、生き方における地理的な相違は、ランダムに存在したのだろうか? それとも何らか他の理由があって、一つのまとまった地域ごとに存在しているのだろうか?これに答えるには、われわれはまだ十分材料を持っていない。可能なことは、現在利用可能な、いろいろなレヴェルで、地域特性を示す人口統計を並べ、そこに見出される地域特性から、説明可能な理由を見出すしかない。

 

1.1.2 徳川幕府の全国人口調査

 いささか語り尽くされている感のある、徳川幕府の全国人口調査であるが、享保6(1721)年に始まり、享保11(1726)年以降は、6年に1回ずつ、幕末まで行われた。全国調査といっても、共通する調査方法や対象があったわけでなく、各大名や代官領で行われてきた調査に従ってよいとされた。各大名の行ってきた人口調査の方法は、後にミクロ史料の説明で述べるように統一性が無く、武士が含まれて居なかったり、ある年齢以下の者が含まれていなかったり、欠点の多いものである。加えて、この調査の原本は存在せず、後年の写本によらざるを得ないので、明らかな間違いもある。しかし、こういった弱点にもかかわらず、18世紀の前半から弘化3(1846)年に至る間、全22回の調査のうち12回については、国ごとの調査結果が得られるので、利用の仕方によっては、貴重な情報を提供してくれる。

 享保6年から弘化3年の全期間にわたる人口変化を地域ごとにみると、北陸、西日本で20%以上増大し、奥羽・関東・近畿では減少している。なかでも、北関東は20%以上の減少を示している。江戸時代の三大災害年(享保17・18、天明3・6、天保7・8)をはさむ年代の国別人口をみると、危機時の人口変化の地域別状況では、全国的に人口減少の国が多く、増大をみせたのは西日本の僅かの国でしかない。他方、全体から災害年を引いた平常年では、ほとんどの国で人口は増大しているが、江戸を中心とする関東地方、京都・大坂を含む近畿地方で減少しているのが注目される。常識的には、都市化が進み、(明治10年代には、近畿地方で人口の30%、南関東地方で20%が、都市とみなすことが出来る人口5000以上の行政単位に住んでいた)人口は増大していると思われがちだが、事実は逆で、都市化の進んでいなかった地域で人口増大が顕著なのである。これは、ミクロ史料によって検討されなければならないが、やはり都市墓場効果(Wrigley 1981)の結果と考えられる。

 また、この幕府による全国人口調査の中には、国ごとの男女数を記録しているものがある。最初は寛延3(1750)年、最後は弘化3(1846)年であるが、この1世紀間に性比がどのように変化したのかを述べると以下の如くである。寛延3年には、中央日本では105に近く、正常といえる。しかし日本の両端では120以上となっており、異常に男子が多く、このことが全国値を押し上げ、115とかなり高い性比となっている。ところが、弘化3年になると、高かった両端の性比はかなり下がり、中央日本も下がってほとんど100に近づき、全国値はほぼ105となっている。この間に東日本では人口が減少したことを考慮するならば、東日本の性比の低下は、専ら男子人口の減少によってもたらされた、ということになる。西南日本の人口は増えたわけだが、性比はかなり下がっているので、女子人口が増えたことを反映している。なぜこのような変化が生じたのかについては、ミクロ・データや関連する社会経済状況の分析を待たねばならないが、幕府の人口調査をこのように取り扱うことにより、解明すべき課題が見えてくる。

 

 1.1.3 明治政府編纂の人口統計

 一つの例として、明治14(1881)年、明治政府の編纂した全国人口統計により、当時700以上あった、市 (当初は区)・郡別の平均世帯規模をみよう。(市、郡の人口規模の分布の幅はかなり大きいが、平均すれば、一郡で人口4万人としていいだろう)明治元(1868)年の政治的変革によって創立された明治政府は、範を西欧にとり人口や物産等の全国統計を編纂し始めた。日本の近代化・工業化・都市化が本格的に進行し始めたのは、20世紀に入ってからであり、明治10年代の統計は、政治的には統一されたとはいえ、伝統社会の性格をなお色濃く残す日本の姿を伝えてくれる貴重な数量資料である。平均世帯規模は、東北日本で高く、中央日本で低く、西南日本で中間という分布をしていた。

 また、同年の女子・子ども比率(史料の関係で、20歳から49歳の女子に対する7歳以下の子どもの比率)をみると、本州の東部で高く、西部では低いことが歴然としており、もしこれが出生率をあらわすとすれば、東低西高という江戸時代の常識とは相反する様相を呈している。

  第三の事例は、明治19(1886)年の統計から推計した府県別の女子平均結婚年齢である。未婚率を示す資料がえられないので、SMAM 法を適用することは出来ないが、年少から数えて女子の有配偶率が50%を越える年齢をとった。北海道を除いて、東日本では低く、西日本では高く、4歳以上の差がある。

 以上の三つの事例とも都市部は、必ずしもその地域の郡部の数値とは一致していない。この問題を含め、これらの詳細な分析は別の機会に譲り、ここでは、明治10年代の日本に、歴史人口学上の地域性が明瞭に認められる、ということを示すにとどめる。

 

 1.1.4ミクロ・データに戻って

 明治10年代のマクロ統計資料は、江戸時代の様相を残すとはいえ、安政元(1854)年の開港に伴い、輸出産業が発展し、特に東北および中央日本の一部では、生糸・絹織物産業の展開の結果、人口の動向や構造におおきな変動があった後の状況を示している。このことを考えると、これらの全国統計を、直ちに江戸時代の様相を示すものとして取り扱うのは危険である。

 しかし、今まで行ってきたミクロ・データ(宗門改帳または人別改帳)の観察結果と照らし合わせると、明治10年代の統計数値は、女子・子ども比率を除いて、整合的であるし、女子・子ども比率は、幕末開港以降急速に変化した可能性があるから、これらの統計は、注意して使わなければならないが、江戸時代の全国の人口指標の見取り図として有用であろう。

 ところで、われわれは、EAP Project、あるいはそれ以前から収集していたかなりの数のミクロ・データ(1年だけの史料も数えれば、約900町村になり、全国の1%以上である)を有している。その観察を通じて、近世日本の歴史人口学的全国像、地域的特徴が朧気ながら浮かび上がってきた。

 ただし、「近世」という時代は、270年間に内部でかなり大きな変化のあった時代であり、空間的相違とともに、時間的変化を組み合わせて考えなければならない。

 一口でいえば、17世紀は外延的拡大の時代であり、人口も耕地面積も増大し、とくに都市の発達が顕著であった。18世紀から19世紀第1四半期にかけては、内包的充実の時代で、全国人口は、地域的に東北日本で減少、中央日本で停滞、西南日本で増大し、合わせて人口は見かけの上では停滞した。前述のように、徳川幕府による全国人口調査において、北関東三カ国と山陽六カ国の人口は、最初の享保6年にはともに180万人であったのが、最後の弘化3年には、北関東で130万人、山陽で230万人と、100万人もの差を持つに至っている。そして興味深いことは、二つの地域の人口を加えると360万人と変わらないのである。これが「停滞」の内容であった。19世紀の第2四半期以降は、人口は再増大期に入り、それまで停滞または減少していた地域でも増大への反転がみられる。その理由は、完全に明らかにされているわけではないが、プロト工業化の展開、開港にともなう輸出産業の発展、種痘法の普及に代表される流行病の駆逐などが競合して起こったもの、と考えられる。

 もちろん17世紀の人口増大が停滞に転ずる時点には地域、あるいは地域内部によってもタイム・ラグがあり、あるところでは17世紀半ばに、あるところでは18世紀半ばまで増大が続いた。農村においては、耕地の獲得可能性に起因するこの違いについて詳しく論ずる必要はないだろう。筆者がかつて行った信濃国諏訪郡の宗門改帳を用いた研究では、平坦部では17世紀中に人口増大は天井に達し、周辺部では18世紀の半ばまで続き、新しい耕地の開発可能な地区では、19世紀まで増大が続いている(速水 1973)。このような、同一の郡のなかでの相違をも考慮しなければならないとすれば、先ほど示した市・郡別の全国地図の意味が問われることになる。しかし、現在の史料収集の状況では、この信濃国諏訪郡の場合を除いて、宗門改帳から郡のなかにおける人口統計上の差を明らかにするほど十分には史料の収集は行われていない。

 従って、われわれの収集した史料のなかで、比較的長い期間をカヴァーし、一つの地域に複数の村落を含む地域をなるべく多くえらんで、その特徴を探るという方法によらざるを得ないのである(速水 1992)。

 そのような地域は、東北日本では、陸奥国会津山間部4カ村、二本松藩領2カ村+町場1、出羽国1カ村、中央日本では濃尾地方平坦部10農村があり、西南日本では、東シナ海沿岸の2つの村がある。地理的分布からいえば、あまりに散在しているが、とにもかくにも、これらの地域のミクロ・データから観察された人口統計上の特徴を挙げると以下のごとくである(18世紀を念頭におく)。

 

         東北日本    中央日本    西南日本

人口趨勢      減少      停滞      増大

    出生率       低       高       高

    結婚年齢      低       高       高

    婚外子       無       少       多

    離婚        多       少       多

    出産数       少       多       多

    人口移動率     低       高       低 

世帯規模      大       小       中 

人口制限      有       無       無

 

 

 

 死亡率・平均余命については大きな差はないし、皆婚に近いほど独身率の低かったことも共通している。また、例外を挙げればきりがないし、同じ三つの地域の中の相違や、境界または中間地域がどこかなど、不明な点は多いが、現時点で浮かび上がってきたこのような人口統計上の地域特性は、どのように説明できるのだろうか。

 第一は、都市化の影響である。江戸は、18世紀初頭に人口100万を越え、京都と大阪を合わせると、100万人に近かった。このほか、10万人規模の都市に、金沢、名古屋があり、これらの都市は、大量の人口を周辺から引き付け、次の節で述べる都市墓場効果によって地域人口を停滞させ、農村から都市へ大量の人口移動をもたらした。こういった都市を近くに持つ地域では、人口制限の必要がなく、継承から外れた子どもたちは、都市の労働市場へ吸い込まれていった。

 都市化の影響の少ない東北日本では人口制限によって苛酷な環境との間に辛うじて均衡が保たれ、相対的に資源の豊富な西南日本では人口増大が生じた。

 第二は、東北日本・中央日本・西南日本が、それぞれ異なった民族的起源を持ち、それぞれの持っていた人口学的行動の伝統がなお残存している、というかなり強引な仮説である。これは、果たして検証可能なのか否かさえ問題のあるところだが、たとえば、東北日本は早婚(これはミクロ・データで十分検証できる)なのに、なぜ人口制限をして、子ども数を少なくしようとしたのか。この矛盾を合理的に説明することは困難で、そこに住む人々の文化に帰せざるを得ない。東北日本は、狩猟採取を生業とする縄文民族の居住するところで、そのことから、密度依存性が高く、一定数以上の子どもを持たない、という性向が内在する価値観をもっていたのではなかろうか。これに対して、中央日本は、中国・朝鮮からの渡来民が農耕や製鉄の技術をもたらし、先住の人々を配下に置いたり、東北に追いながら広がっていった。農耕は、開発すべき土地がなくなったり、技術的発達の限界が来るまで、生産量を引き上げることが出来、人口の扶養能力はより大きかった。さらに西南日本には、以上とは異なる第三のグループが南方から島伝いにやってきて、九州の東シナ海沿岸に定着した。このグループは、九州のみならず、朝鮮の済州島、琉球列島にも定着し、共通の文化を持っていたものと思われる。婚外子の多かったこと、結婚年齢が遅いにもかかわらず、離婚・再婚の多いことなどは、この「東シナ海沿岸文化圏」とでも名づけることの出来る人々のもつ特徴である。

 

1.1.5 都市と農村

 さらに、もう一つ、広い意味での地域性の中に、都市と農村の違いを挙げなければならない。一般的にいって、近代技術の生活面への適用が進む以前においては、都市では出生率は死亡率より低く、農村では出生率は死亡率より高かった。その差は、農村からの大量の人口流入によって埋められなければならなかった。最近の学説では、単に出生率と死亡率の差だけではなく、都市における独身率の高さ、居住の不安定性を加え、総合的に判断すべきことが言われている。しかし、だからといって近代以前の都市が、農村に比べて健康的であったわけではなく、自然成長率はネガティヴであったことは間違いではない。

 この都市墓場効果は、都市の人口規模が大きいほど、より正確には、人口密度が高いほど明瞭であった。大都市とくにその中心部では、人が密集して住み、ひとたび疫病が襲ったり、飢饉期に適宜な措置が採られないと、非常に高い死亡率を記録している。たとえば、1837年には、農村からたまたま都市に働きにきていた者を含め、多数の死者が京都・大坂で見出されるが、多分これは伝染性の高い疫病によるものだろう。

 しかし、中小規模の都市では必ずしもそうではなく、とくに居住空間の広がる余地のある都市では、密度もそれほど高くならなかったし、農村的性格を一面で残していたから、この効果は低くて済んだ。逆に、密集性の高い都市だと、人口規模は小さくても、大きな打撃を与えた。たとえば、紀伊国牟婁郡尾鷲は、天保8(1837)年の都市部の人口(8歳以上)4854人であったのが、翌天保9年には3931人へと、19%の減少を見せている。記録では高熱と下痢を伴う疫病と記され、消化器系の伝染病による死亡だったことが考えられる。付近の村落でも人口が増えたところはないが、これほど減少率が高かくはなかった(速水 1969)。

 同じ時代に、大坂では天保6(1835)年と天保9年の人口を比較すると、10.8%の減少を見せている(西山 1952)。歴史家はしばしばこの時期の人口減少を飢饉に求めているが、飢饉があったとしても、流行病によって人々の作業活動が低下したためであったに違いない。従って、この効果が効くか効かないかを、単純に都市の人口規模で決めてしまうわけには行かない。むしろ、居住のあり方によって決まる、とすべきだろう。

 筆者による奈良東向北町の死亡と、美濃の一農村の死亡の事例研究を示しておこう(速水 1997)。二つの居住集団の死亡者を年齢別に史料の残存期間[奈良は寛政5(1793)年から明治4(1871)年まで、美濃農村は、安永2(1773)年から明治2(1869)年まで]、死亡者の年齢別分布の構成比率をみると、その形状は大きく異なっている。双方とも、5歳未満の子どもの死亡数が多いことは共通しているが、奈良では、成人してからの死亡者数に大きな変化はなく、何歳でもほとんど同じ数の死亡がみられる。これに対して、美濃農村の場合は、幼児期の危機をすぎると、死亡者数は顕著に減って、50歳をこえるあたりから増えはじめ、70歳でピークに達し、100歳まで続いている。奈良では、80歳以上はなく、それ以上長命であった者はいなかったことを示している。わずかの事例ですべての都市と農村を代表させることには慎重であらねばならないが、このような死亡者の年齢分布の違いは、予測した通りであって、決して例外ではない。

 居住者の年齢分布の影響を除くため、この同じ二つの人口集団の年齢別死亡率を比較してみても、男女とも、ほとんどの年齢階層で死亡率は奈良の方が美濃農村より高い。とくに、20歳台・30歳台の働き盛りの年齢で、その差が大きい。まぎれもなく、農村の方が健康的であった(速水 1997)。

 

  1.1.6 おわりに

 ここで述べたことは、EAP Project によって達成された研究成果のほんの一こまである。以下、個々の主題に則して、報告が記述される。  

 今回のEAP Project を通じて、多数のマクロおよびミクロ・データを収集することが出来た。最終報告書には、収集史料目録を付するが、とくにミクロ・データの収集は、所在をつきとめ、所蔵者の許可を得てマイクロ・フィルム等の媒体に写し取り、それを印刷し、作業用のシートに書き写し、最も適したフォーマットでコンピュータ入力を行い、統計分析に備えてデータ・ベース化するという長い過程を必要とするため、収集史料すべてを利用することは出来なかった。近世の歴史史料については、人口史料に限ったことではないが、「求めよ、しからば与えられん」とでもいうべき状況があって、終わりのない探索である。換言すれば、多数の未開拓文書が、旧家の蔵で朽ちつつある。この研究での史料収集の空白域が埋められ、全国的な鳥瞰が限定句なく可能になるためには、なお一層の努力、時間と費用が必要である。


1.2 史料収集               鬼頭

1.2.1 史料収集

1.2.1.1 活動目標

 前近代日本の歴史人口研究における基本的な人口資料は、江戸時代から明治初年にかけて作成された宗門人別改帳である。宗門改帳は戸籍型の史料であり、同一の対象について、人口と家族の状態やその変化を同時に分析しうるという利点をもつ。のみならず、長期間連続して利用可能な場合には個人や家族の行動を詳細に観察、分析しうる、世界でも稀有の歴史史料である。個体の「出来事」を、統計学的に処理する最新の方法である event history analysis  の適用さえ可能である。

 本研究班の活動は、社会を構成する基層は人口と家族であるという認識に立ち、近代化、都市化、国際化によって変容する以前のユーラシア各社会を比較検討しようとするという本研究プロジェクトの目標を達成するために、世界的にも価値の高い近世日本の人口史料を、組織的に収集し、整理し、可能な限りデータ・ベース化し、歴史人口学および家族史的分析のために供することである。第一に日本国内に存在する人口史料の所在を確認する。今までに未収集あるいは収集事例の少ない地域、既収集地域でも新たな発見のあったところ、また、今までの収集では漏れてしまった残存期間が短期間の史料についてもマイクロフィルムによる収集をおこなう。すでに史料の所在調査は終えており、多数の史料が、全国各地の公的機関に存在することがわかっている。第二に収集史料をマイクロ・フィルムからプリントし、一点ごとに目録を作成する。史料は解読され、一定の形式にしたがってデータとしてコンピューターに取り込まれ、データ・ベースを構築することになる。

 

1.2.1.2 活動概要

史料所在調査の方針

 史料所在については、本プロジェクトに先立ってすでに研究代表者・速水融によって実施された「近世人口史料調査」の結果を基礎史料として利用した。第1次調査は昭和61(1986)年7月におこなわれ、全国自治体の教育委員会、公立図書館・文書館・史料館、主要大学図書館を対象に史料所在に関する質問表が送付された。これにより比較的多量に良質の史料を所蔵、保管、もしくは所在情報の提供があった機関に対して、同年12月に第2次調査がおこなわれた。この調査結果は都道府県別にデータ・ベース化されている。EAPプロジェクトにおいては「近世人口史料調査」にもとづいて収蔵機関を訪問し、史料を直接に確認することと、写真撮影することを第一義的な作業目標とした。

研究プロジェクトの源流をなす研究活動の一環として研究代表者・速水融の指導のもとに、これまでに各地の人口史料は収集されてきたが、重点的に研究されたのは陸奥国(現福島県安積郡・安達郡・会津地方)、信濃国諏訪郡、濃尾地方であった。陸奥(現山形県・宮城県)、関東(上野・武蔵・常陸)、北陸(越前)、畿内、山陽(長門)、九州(肥前)についても本格的な研究はあるが、広範囲に地域を網羅する研究は未だなされていない。

近世日本社会には、想像される以上におおきな人口・家族構造の地域差が存在したことがわかってきた。この地域性を把握するために、史料収集の対象をこれまで歴史人口研究が手薄だった地域に重点的にしぼることとした。選ばれた地域は、東北地方日本海沿岸地域(出羽)、陸奥(青森県地域)、関東、北陸(越後)、畿内都市部(京都、大坂、奈良)、および農村部中国(備前・美作)、九州である。

 史料調査は、上記「近世人口史料調査」以後の各地における史料所在情報の整備を考慮して、EAPプロジェクトの研究者および研究協力者による補完的な現地調査を実施した。またこれと並行して外部研究機関と協力関係をむすんで情報をえることとした。

 

外部研究機関との協力

 EAPプロジェクトにおける史料収集作業の一部は、アメリカに本部をおくユタ系図協会(The Genealogical Society of Utah,以下GSU)東京支部図書館と提携して実施した。この協力関係はEAP代表と同図書館史料部長とのあいだに締結した契約にもとづくものである。契約の主たる内容は下記のとおりである。なおこの研究業務委託は一切、金銭授受をともなわない協力関係とされた。

1)史料の複写は16mmマイクロフィルムによる自写でGSUが担当すること。

2)原ネガフィルムはGSUが保管し、閲覧者のためにフィルムの目録やその他補助史料を作成すること。

3)コピーの一部をEAPプロジェクトが保管し研究目的のために利用すること。

4)コピーの一部を史料所蔵者に提供すること。

5)原史料に対する著作権はEAPプロジェクト、GSUともに得るものでないこと。

6)史料所蔵者の許可なしに第三者に対して複製フィルムを交換、販売しないこと。

 

史料の撮影

 所在の確認された史料は以下の3通りの方法によってマイクロフィルムに撮影された。

1)自主撮影

  EAPプロジェクトの研究者または研究協力者によるマイクロフィルムによる複写。

2)GSUによる撮影

  GSU関係者による16mmマイクロフィルムによる複写。

3)業者による委託撮影

  史料収蔵機関によっては研究者の自主撮影や業務提携したGSUの撮影を

認めず、機関指定の業者による有料の委託撮影だけが許可された。

 

史料調査の概要

平成7年度

 史料収集を首都圏を中心として積極的に行ない、既収集のものを含め整理し、新たに開発されたプログラムによりコンピュータ入力を行なった。また文献目録、史料目録の作成、収集マイクロフィルム史料の焼き付け、関連文献の収集を進めた。

平成8年度

 引き続き史料収集・整理、関連文献収集、史料目録・文献目録作成を進めた。

平成9年度

 平成9年度の史料収集は首都圏・中部ならびに西日本を重点的に行なった。その結果従来史料収集が、不完全であった西日本にも、慎重に調査すればおおくの史料が存在することを知り、10年度以降にも重点調査地域として史料調査を続けた。収集史料の詳細目録を作成し、本研究参加者の便に供した。

平成10年度

 収集史料目録の作成を全年度に引き続いて行なった。原史料の地理情報(国・郡・村あるいは町)経済情報(石高)、社会情報(領主、支配形態)、文書情報(史料所蔵先、作成の形式)等を町村情報として入力し、それぞれの収集年代、形態別(マイクロフィルムか図書かフィルム焼き付け製本か等)、整理進行状況(BDS作成、コンピュータ入力済み、クリーニング、データ・ベース化等)を一覧できる表を作成した。

平成11年度

 マイクロフィルムによる史料収集は継続して行ない、できるだけ多くの町村データのコンピュータ入力をはかり、データ・ベースとして公開する。史料収集史料目録を完成させ、公開する。

 

1.2.1.3 史料所在情報・収集史料目録

史料所在情報

東北 東北地方のうちこれまでに史料情報の少ない青森、秋田、山形各県で所在調査がおこなわれ、史料所在目録(部内資料)が作成された。

新潟・関東 首都圏における調査はもっとも初期に着手され、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、東京大学、国文学研究資料館・史料館において調査と撮影がおこなわれた。各県史料館、図書館の収蔵史料についてはおもにGSUが担当した。史料所在情報は各機関によって公刊された目録(抜粋)が集積されている。

畿内都市 外部機関からの情報にもとづき、近畿都市部(京都、奈良)の史料を収集した。

岡山 西日本班による史料調査はおもに岡山県(備前・美作)においておこなわれた。津山郷土博物館、岡山大学附属図書館(岡山大学所蔵近世庶民史料)、英田町歴史民俗史料館(田中家文書)などの史料がマイクロフィルムに撮影された。

 史料所在目録は「美作・備前・備中の宗門帳/史料残存期間および地名対照表」(部内史料)として報告され、さらに別記収集史料目録に記載されている。

なお本地域の人口史料に関しては、平成8(1996)年度社会経済史学会中国四国部会大会(平成8年11月3日、香川大学)において、パネルディスカッション『「宗門帳」と家族・人口・地域史研究の可能性−美作および備前の事例より』(組織者村山聡)が開催された。この地域の人口史料とそこからえられる人口特性については、村山聡により「天保の危機と美作国の地域性」(コンファレンスペーパーシリーズ8)、「記録された世帯とイメージされる家族−地域科学としての比較史料研究」(ワーキングぺーパーシリーズ9)で検討されている。

九州 九州の人口史料の調査については研究協力者東昇、磯田道史が中心となって実施され、肥前野母、肥後天草、薩摩などの重要史料の収集をおこなった。平成10年9月開催のEAP9月セミナーにおいて「九州地区近世宗門改・家族・人口関係史料の概要」と題して東により報告された。

 

収集史料目録

 収集した915町村の史料についての情報は、本報告書に添付の目録情報にまとめたので、そちらを参照していただきたい。

 

1.2.1.4 活動の評価と問題点

史料収集の成果

 本研究期間中に確認された近世人口史料所在は全国で1000町村を超える。そのうちなんらかのかたちで収集されたものは915町村(平成12年3月31日現在)である。調査の結果、一般には宗門改帳の存在がわずかしか知られていなかった四国、九州においても、相当量が存在することが判明した。すでにこれを利用した調査が部分的に推進されているが、これまでに理解されてきた近世の人口史像の書き直しが迫られる可能性がある。

 いっぽう、東北地方北部では長期にわたって残存する人口史料はまだ十分に見いだされていない。史料そのものの不在のためではなく、当該地域の機関による調査が進んでいないことがおもな原因のように考えられる。これら地方の史料の発見が進むならば、近世日本における人口・家族構造における地域差がより明確に把握される可能性があるであろう。

  研究期間以内に所在が確認された人口史料のすべてを収集することはできなかった。また今後も、各地における地方史編纂過程で史料の存在が確認されることは明かである。したがって、継続して調査と収集がおこなわれることとが望まれる。

 

収集史料の保存と公開

 研究費の受入機関である国際日本文化研究センターとEAPプロジェクト研究代表者 速水融(所属機関は麗澤大学)のあいだで、研究期間終了後の史料のとりあつかい原則について、下記の合意をみた。

1)史料所蔵者の許可 史料所蔵者にEAPから国際日本文化研究センターへの紙焼製本の移管と画像入力、内容入力についての許可を得る。

2)マイクロフィルム 史料を撮影したマイクロフィルムの取り扱いは以下のとおりとする。オリジナルは麗澤大学東京研究センター(研究代表者の所属機関)で保管する。複製(データベース化するもの)を国際日本文化研究センター新プロジェクト室が保管する。

3)紙焼 本プロジェクトで作成した紙焼製本は、国際日本文化研究センター資料課、新プロジェクト室、および麗澤大学東京研究センター(研究代表者の所属機関)で保管する。

4)BDS 読解され基礎作業シート(BDS)に記載されたオリジナル、および個人番号を付けた加工シート(整理上必要な書き込みがある)は、麗澤大学東京研究センターが保管する。加工シートのコピー(データベース化するもの)は、国際日本文化研究センター新プロジェクト室で保管する。

 

史料収集上の問題

 史料収集の過程でいくつかの問題が発生した。

 第1は史料利用の制約である。とくに明治初期の戸籍は身分情報を記載するためにプライバシー保護の点から制約が必要であるし、壬申戸籍については、法律によって閲覧は一切禁止されている。しかしこのほかにも調査、整理の未了を理由に、所在そのものの情報が得られない場合もあった。

 第2は自主撮影が不許可となり、収蔵機関指定の業者に撮影を依頼しなければならない場合があったことである。史料保護のためには理解しなければならないものの、このために研究費用がかさむ結果となった。

 第3に協力関係をもったGSUに対する史料収蔵機関の対応である。EAPプロジェクトのメンバーによる史料撮影は撮影料が無料であっても、GSUによる場合は利用料が徴収されて有料となったり、史料の撮影そのものが許可されない場合があった。GSUに対する理解が十分でないこともあるが、撮影史料を第三者に公開するという点で、プライバシー保護および著作権・所有権にかかわるためでもあった。各機関で基準が共通していないこと、および同一機関であったも管理者の交替によって条件が変更することがあるということも渉外上の問題であった。

 

1.2.2  西日本地域における宗門改帳の収集*       村山

  本節は、特に西日本地域の史料収集を目的にした西日本班におけるこの5年間の活動をまとめたものである。資料調査ならびに資料収集には実に多くの方々の助力を得ている。特に東昇や磯田道史の助力がなければ、数多くの資料収集を行うことはできなかった。また、資料調査の整理には、豊田真由美、原恵、田村奈美、日比佳代子ならびに三枝直樹の助力をあおぎ、文書のマイクロフィルム撮影には、彼らの他にも、平川毅、梶嶋政司、成田一江、藤田理子、Merkleyn Iwona、山下洋らの九州大学の大学院生や香川大学の大学院生等に助力を仰いだ。ユーラシア・プロジェクトの研究代表者速水融には西日本班のいろいろな申し出に常に迅速な対応をして頂いたことに特に感謝の意を表したい。また、東ならびに磯田以外にも、岡山グループの沢山美果子、溝口常俊の資料収集への助力に対してもあわせて感謝したい。報告者を含めて、岡山グループは今後もさらに研究成果をまとめていく予定である。なお、各地における資料館等関係者の方々には撮影等に際して多くの便宜を図って頂いたことにもあわせて感謝したい。岡山県の史料目録の整理においては、岡山県総務部総務学事課文書整備班の在間宣久ならびに定兼学両氏の助言と助力を頂いた。天草上田家については上田陶石合資会社の田中光徳氏、薩摩については、宮之城町歴史研修センター館長川添敏行氏、美作の福本村、井口村、尾谷村その他については英田町歴史民俗資料館(英田町教育委員会町史編纂室)粟井成行氏に感謝したい。また、津山郷土博物館あるいは九州大学の九州文化史研究所においても多くの史料の撮影をさせてもらい便宜を図って頂けたことに感謝したい。なお、ここでは触れることのできない、それぞれの家文書の整理にあたられた多くの方々や町村史などの自治体史をまとめられた方々の成果なくしては今回のような資料収集を行うことは不可能であった。名前を挙げることのできない多くの歴史家にも感謝の意を表したい。

 

1.2.2.1 はじめに

 宗門改帳という日本固有の歴史資料がいかに豊富な内容を持った史料であるかを改めて論ずる必要はないであろう。その宗門改帳に関して、西日本地域の調査は、これまで十分には行われていなかった。1995年以来5年間にわたるEAPプロジェクトにおいては、史料収集も重要な課題の一つであったが、おそらく今後、このプロジェクトのような規模において、宗門改帳に関して、史料調査を行うことはできないであろう。ただ、西日本地域の史料調査も決して完全に終えたというわけではない。多くの未収集のものがあり、今後のさらにきめ細かな調査や分析の必要性を改めて理解したというところである。本報告では、この5年間の西日本地域における資料収集について、いくつかの収集地域に限定してその概観を述べたいと考える。

史料調査の出発点は、昭和61(1986)年2回にわたって、文部省科学研究費特別推進研究「近世日本の歴史人口学的総合研究」に基づき、速水氏によって遂行された4000通を越えるアンケート調査である。全国の資料館や教育委員会等に対して、宗門改帳等の人口関係資料の所在調査がなされた。今回のユーラシアプロジェクトでは、各県別にそのアンケート調査の回答を整理することからはじめた。すでにその調査から10年近い歳月が経過しており、アンケート結果の補充が必要であることは容易に想像できる。特に、県史、町史、村史(誌)(以下「自治体史等」とよぶ)などが新たに編纂されたところなどでは新たに資料が発掘されているだろうと考えた。さらに各地での歴史資料館等の整備が急速に進んだことも影響を与えていると考えた。また同時に、近世日本の史料においては、その文書を読め、そして保管してきた世代の高齢化が進み、各家の文書の散逸も懸念された。この5年間は江戸期の文書を残していくには最後の機会かもしれないと考えられた。いずれにしても、どの地域の資料調査を行う上でも、まず上記のアンケート結果を利用することにした。新たな歴史資料館等の新設なども当時の関係者に問い合わすことによって容易に現在の文書の保管状況を知ることができるからである。

歴史史料は偶然残されているように考えることもできるが、史料がいかに保管され利用されてきたかということにもそれぞれの社会のあり方が反映されている。どのような特徴をもった史料がどのような形で記録され管理されていたかについて、比較史料学的な社会研究の可能性がある(村山 1999)。事実、このプロジェクトにおける西日本地域全域の資料調査の結果として、宗門改帳としてひとくくりにできる史料群がいかに地域性を有したものであるかが理解されたと同時に、日本全国の共通性も存在することが確認されたと考える。前者の地域性が多様な近世日本を示すと同時に、後者の共通性は、ヨーロッパや他のアジア地域との比較において、日本の独自性を明らかにするものであろう(Murayama forthcoming)。

 さて、アンケート調査に基づく文書保管状況の確認の次に行われたのは、自治体史等の整理である。幸い近年ほとんどの自治体において、地方史の編纂が少なくとも一度はなされている。このような県史や自治体史(誌)の編纂過程で多くの史料が整理され、かなりの部分が利用可能な状態になった。しかし他方で、自治体史等の刊行後は、史料が各持ち主に返され、その後、紛失、焼失または利用不可能になった場合さえある。近世日本社会の多くの史料が私蔵文書であることは、近世ヨーロッパの史料状況を知っている報告者にとっては驚くべき特徴である。人口関係資料に限って議論するとしても、近世ヨーロッパの場合に利用できる史料は、各行政機関で作成された文書や教区簿冊などの教会関係文書などである。これらはいわば公的に管理されていた文書であるし、常に、公的な機関において保管されてきた(Murayama 1990)。他方で、日本の宗門改帳は一種の行政文書であるが、それらの史料も民間において管理されてきた。近世日本社会でどのように管理され利用されてきたかは、本報告でも言及するように、薩摩等を除くと、ほぼ一様に庄屋もしくは大庄屋が領主等に提出した書類の控えを保管するという傾向を示すが、細かく観察すると多くの地域差が存在する。薩摩の山崎御仮屋文書である「宗門手札改帳」の場合はいわば役所に保管されていた文書と考えられ、宗門改帳としては例外的なものである。

 多くの場合に私有文書として扱われている宗門改帳の資料収集は、他の近世文書と同様に、公的な文書館の整備が進んでいるヨーロッパと比較すると、考えようもないほどに苦労を伴う。日本においてはしばしば個別の史料の発掘とその解読そのものが歴史研究として理解されるのもある意味では当然であろう。しかし、人口関係資料においては、直接史料に書かれていることが語る内容そのものは貧弱なものであることが多いものの、大量データの統計的観察によっていかに当時の農民生活の実態に迫ることができるかをこの研究プロジェクトは明らかにしてきた。今回収集された史料は新たに利用可能なデータベースに加えられると同時に、史料そのものに関してもさらに基礎的な比較研究を積み重ねることで、そのような歴史人口学的家族史研究の実証的基盤をさらに堅固にする。また今回の史料収集は、マクロ統計的観察では行い得ない地域差についてもきめ細かい総合的な地域研究を可能にすると考える。

先に、西日本地域の資料調査は十分行われていなかったと述べたが、数十年以上の長期にわたって残されている宗門改帳の所在については、代表者速水はおおよその傾向を掴んでいた。基本的には、幕府領を中心にした地域に残されている確率が高く、その他にもすでに、美作の羽仁(はに)村や行延(ゆきのぶ)村の宗門改帳などが含まれる矢吹家文書など多数の文書の存在が知られていた。そのような状況において、西日本班では、西日本地域全域を調査するにあたって、矢吹家文書を中心に、岡山特に美作地方の資料情報の収集を行うことで、その後の調査の基本方針も固めることにした。

 

1.2.2.2 美作の資料調査と史料収集

 江戸初期100年間の美作は、森家の一国支配のもとにあり、正保2(1645)年に幕府に差し出された「美作国郡村帳」(森家先代実録)には、592の村々が存在したことがわかる(柵原町史,  p.268)。享保2(1717)年編纂の『美作鬢鏡』では691の村々が確認されている。森藩時代には、新田の奨励のため、新田を開くと7年間は無年貢とされていたようであるが、その森藩時代に村数も100近く増加していたことがわかる。しかし、元禄10(1697)年に森藩は断絶し、元禄11(1698)年に、美作は津山松平領と幕府領(天領)に分けられた。その後、天領も私領もたえず所領替えが繰り返され支配者の異なった領地が複雑に入り組んでいた。

 支配が複雑に入り組んだ美作に関する宗門改帳の調査の出発点は、すでに述べたように第一にマイクロフィルム化されていた矢吹家文書の宗門改帳にあった。矢吹家文書には、現在の柵原(やなはら)町に位置する行延村ならびに羽仁村等の宗門改帳が収録されている。この史料を最初の手掛かりとして、第二段階は、これまで刊行されてきた自治体史等の整理に基づく宗門改帳の所在調査である。これにより宗門改帳の所在についての概略が把握された。自治体史等の整理を出発点に悉皆的調査をすることがいかに有効かを美作の事例は示している。その後の調査においても同様の方針を採用することにした。

第三段階は、岡山県の近世史料に関して、各家の史料目録の整理である。刊行されているものあるいは手書きのものも含めた350点余りの史料目録は岡山県総務部総務学事課の文書整理班において保管されており、これらの資料の中から宗門改帳その他の史料の所在を確認する作業を行った。このようにすでに作成されている個別の資料目録に基づいて、近世史料の残存状況についてその全体像を掴むことができたのはこれまでの調査では岡山県に限られる。多くの場合、個別の資料館ごとに資料目録が作成されているため、各地域に残されている近世文書の全体像を把握することにも時間がかかる。

さらに第四段階として、自治体史関係の整理ならびに補充と史料目録の整理を行い、美作の史料情報の全般的整理を行った。その結果、およそ100か村あまりの村と城下町津山に人口関係史料が存在することが確認できた。

そして第五段階は、文書館等を直接訪問し、実際に保管されている文書の確認とマイクロフィルムの撮影である。この段階でさらに多くの史料を発見することができる。自治体史等の整理は残されている文書の一部しか知ることができない。報告者自身が調査および撮影を行った英田町の田中家文書の場合など、当初の所在調査では井口村の史料のみが確認できていたに過ぎない。福本村その他の村々の宗門改帳が残されていることは実地調査ではじめて知ることができた。

 具体的な実地調査を含めた作業の開始からすでに4年以上の歳月が経過したが、美作について収集できたのはその半分足らずの47か村と城下町津山の史料に過ぎない。未調査のものもまだあり、先にも触れたように享保2(1717)年編纂の『美作鬢鏡』では村数は691村となっていることからも、今回収集できた史料の残存している村数はそれらの十分の一にも達していない(表1:美作の人口関係資料(収集利用分のみ)参照)。

 さて、これまでの近世美作の資料調査において確認されている最も古い宗門改帳は、久米北条郡坪井下村の元禄14(1701)年の「宗門御改帳」であり、この村は現在の久米郡久米町坪井下である。この村は、幕末には挙母藩となっているが、この宗門改帳が記された当時は幕府領であり、この村に代官所があり、代官西与一左衛門に進達されたものがこの宗門改帳であるとされている(『久米町史下編』1984,p.139)。『久米町史下編』では残念ながらこの文書の一部が翻刻されているだけであり、原本は確認できていない。

 2番目に古いものは現在の英田町上山に位置する上山村の「作州英多郡上山村宗門御改帳」である。この文書は、福本村や井口村の宗門改帳と共に英田町歴史民俗資料館に保管されていたはずであるが発見することができず、利用できたのは、村民が参加して行われた英田町史編纂時に作成されたと思われる、各家単位についての戸主名と年齢、家族構成が書き写されたシートである。英田町史にはこれについての詳しい情報は記されていない。

 以上、美作を中心に述べてきたが、徳山家文書のように美作に属する津山藩や、備前・備中の宗門改帳の一部は、岡山大学付属図書館所蔵の『近世庶民史料』として岡山大学に保管されている。徳山家のほか、橋本家、丸山家、荻野家、西尾家、平川家、湯槇家、川面池田家、藤戸村で知られる日笠家、好本家、坂野家、長瀬家、小野家など、13の家の文書について、マイクロフィルム撮影を行った。これらの文書は、業者依頼で撮影されたが、全部で、54本のマイクロフィルムに収録されている。

 備前、備中、美作という現在の岡山県に相当する地方における宗門改帳などの戸口関係史料の残存状況を概観した場合にいえることは、幕末100年間についての史料情報は得られるが、前期の史料情報を得ることのできる村はごく少数であるということである。東は、夫役台帳から宗教統制そして人口統計へという変遷を踏まえて、徳川期前期も含めた正保2年から明治4年にかけての岡山藩における「宗門改帳」の観察により、その帳名の変化には、作成方法や性格の変化が反映していると指摘している(東 1997a)。

 幕府や各藩は独自の書式で「宗門改帳」を作成していたため記載の書式は藩の数だけあると考えられる。また「移封」という大名の配置替えの結果、「特定の作成原理や記載方法が、その地方の特徴だとは言い切れない」(速水 1997,p.59)と同時に、時代的な変化にも注意が必要であろう。また、この時系列的な比較史料研究は、地域比較を行うことによってさらにダイナミックな議論を展開することができると確信している。今後、美作に加えて、石高記載はないものの、多くの宗門改帳が残されている備前も含めた備作地方の比較史料研究がさらに進展することが望まれる。中国山地から瀬戸内海に至る多様な自然環境に属する村々の比較を行うことができるからである。西日本班の岡山グループは今回の史料収集に基づいてさらに研究を進展させる予定である。

美作の史料収集において、これまでの歴史人口学的地域研究においては従来十分検討されてこなかった問題を明らかにすることのできる村落史料を発見することもできた。沢山の調査により見出された、作州津山の城下町に隣接する山北村の人口に関する文書は、安永6年(1772)の「美作国西北条郡山北村明細人別帳」以来幕末まで44点(津山郷土博物館所蔵)が確認されている。特に文化13年(1816)以来、慶應3年(1867)までの52年間で32冊残されている「懐胎届人別出入生死毎月改帳」は貴重な史料である。懐胎4箇月目の記録ならびに生死に関して毎月記録された史料が残された背景には、明和・安永期の人口増加策に基づく藩政改革が挙げられる。一時期ではあるが、年に一度または三度の領内総人口改などもあり、また、「出生・死失」と「出・入」改は、この頃から幕末まで一貫して行われた(『津山松平領の人口』1982,p.8)。赤子の間引きなどを禁止するのが目的であったとされる(沢山 1998a)。

 また、安永2年(1773)の御触書(『郷土の文化資料』1978,p.23)により、在中の者のご家中への出入奉公が禁止され、入込奉公のみが許可されることになり、奉公中は、村方人別から除くことが取り決められた。その結果、出入りにもいちいちそのことが記されることになっている。しかし、安永6年の明細人別帳においては、そのような入込奉公をしている者は、特に区別はされてはいない。それに対して、文政12年、弘化3年および文久4年の「西北条郡御仕置五人組人別帳」では、入込奉公者の名前や奉公先、目的などが明確に記されている。他の世帯構成員の場合、その年齢がすべて記されているのに、彼らの場合は、続柄と名前のみが記されている。また、文久4年については、そのような五人組人別帳に加えて、「西北条郡山北村五人組人別并宗門改帳」が残されている。人別改帳が縦帳で、大庄屋の作成になっているのに対して、これは横帳であり、庄屋の作成になっている。また、人別改帳が4月の日付であるのに対して、宗門改帳は正月の日付になっている。この宗門改帳には、先の入込奉公人については一切記載がなされていない。宗門改帳も毎年作成されていたと考えられるが、大庄屋の大谷家の所蔵文書には、一冊だけ残されていたようである。

 この宗門改帳が現住人口を把握していたことは明白であるが、問題は、人別改帳において、入込奉公人が世帯とは別枠にされていた意味である。彼らは場合によっては、奉公中の苗字帯刀が許されており、藩の政策としては、家族内でも百姓身分と武家身分との明確な区分けをしていたことがよく分かる。幕藩体制にとっては、世帯という単位よりも、組や村、そして特に身分の区別がよりいっそう重要な集団的単位であったことを改めて知ることができる。

そういう社会規範的なイメージの中で、社会構成上の大きな変化を観察することもできる。というのは、各年の「懐胎届人別出入生死毎月改帳」の末尾にある人口の集計データの変化を観察すると、特に大きな性比の変化を観察することができるからである。この集計データには、先の男性を中心とした武家への入込奉公人が含まれていないため、基本的に女性の数が多くなっているが、それが、特に幕末では著しい。武家奉公人の数や奉公先が判明するのは、「西北条郡山北村御仕置五人組人別帳」の類である。文政5年(1822)の場合は、男性160人に対して20人が武家奉公人であったのに対して、弘化3年(1846)には、男性141人に対して14人であった。文政5年が12.5パーセントであるのに対して、弘化3年は、9.9パーセントであった。それに対して、文久4年(元治元年)(1864)では、173人に対して59人であり、34.1パーセントにもなっている。最後の文久4年(1864)には、先に述べたように「西北条郡山北村五人組人別并宗門改帳」も存在するが、この宗門改帳には、石高ならびに先の奉公人については名前も記載されていない。この点について詳しくは磯田の論考を参照されたい(磯田 1999b)。

 いずれにしても山北村の史料分析の結果として家族史研究において注意する必要があるのは、自然環境と同時に城下町等との社会的関係における、その村の地理的な位置とその地域における社会経済的役割であろう。津山の城下町に近接する山北村では、その村落における家族関係はその村落の内部メカニズムだけに支配されていたわけではない。むしろ、武家奉公という城下町への依存関係が最も重要な役割を演じている。磯田は、武家の研究を中心に行っているが、先にも触れた山北村に関する論考において、武家の研究と百姓の研究との対話の可能性を示している(磯田 1999b)。またこの議論は、さらに周辺地域における村方の人口動態の研究(村山 1997および磯田 1999c)を進めるとともに、さらに溝口による津山城下町に関する町方の人口移動の研究と組み合わせることによって、新たな論点を提供することが可能である(溝口 1996)。このような意味で、山北村に相当するような村の史料が残されているかどうか、調査を行っていたが、幸い岡山藩に関しても、すでに磯田が発見しており、今後の比較研究の道が開かれた。

 

1.2.2.3 自治体史等の整理と九州地方の宗門改帳

 岡山県と同様のレベルで詳細な史料情報の収集を、西日本地域全域について行うことは膨大な時間と労力を必要とする。九州大学九州文化史研究所には、九州全域の自治体史等が集められている。もちろんすべてが完全というわけではないが、すべての県について約1000点の自治体史等があり、その整理を出発点とした。この整理は主に東が行ったが、日比も資料整理に加わった。さらに各県の県立図書館や文書館等において、史料目録、史料カード、実地調査などを行った。この結果として、自治体史関係ならびに史料目録において376点の人口関係資料に関する記載があり、個々の人口関係資料としては、1996点の存在が確認された。九州全域の資料情報については、東作成のCD-ROM『宗門改史料の画像データ』(EAPプロジェクト西日本班/東 昇 1999)に収録されている。今回、収集を行った天草上田家文書や薩摩の山崎御仮屋文書あるいは九州文化史研究所所収の史料の撮影などは、この1996点のうちの327点が含まれている。

 天草ならびに薩摩についての表2および表3を見てもわかるように、自治体史関係の資料情報から得られる情報には限界がある。岡山県の例のように文書目録が整理されている状況であるならば、より正確な情報を得ることができるが、自治体史等はその記述内容がそれぞれ大きく異なるため、得られる情報にも限界ある。より正確な収集を行うためには、地域限定をした史料目録および実地調査が不可欠である。

 なお、想像される膨大な量の史料をすべて集めることは到底できないため、今回は、資料情報の整理において確認でき、人口学的分析にも耐えられる史料に限定しながら撮影を行った。結果として、先にも述べたように、天草上田家(表2:天草の宗門改帳)、薩摩の山崎御仮屋文書(表3:薩摩の宗門改帳)、そして九州大学九州文化史研究所所収の史料のマイクロフィルム撮影にとどまることになった。50年、できれば100年以上の連続した史料となると、その要請に堪えうる史料は非常に限られたものにならざるを得ない。そこで、可能な限り全県の史料を収集すると同時に、今後の歴史人口学および家族史研究において、またより基礎的と思われる比較史料学的研究や近世日本の地域研究にとっても重要と考えられる史料の収集も行うことにした。薩摩の史料などは、史料の連続性も少なく、すぐに人口学的分析が可能とは思われないが、今後の家族史・人口史研究には重要な貢献をすることのできる史料と考える。その他、今回は撮影もしくは複写をすることができなかった史料も数多く存在する。各地域における個別研究が進められる必要があろう。また、自治体史等の整理も近畿以西の全県で実行できたわけではない。残された県は、山口、愛媛、徳島の各県である。

 なお、自治体史等の整理だけでは不十分であることを述べたが、やはり資料目録等が完備されている状態で調査をすることにより、より詳細な情報を得ることができる。九州大学九州文化史研究所所蔵の文書についても、カード式の目録がある。今回は、この所蔵資料の中から、松木文庫、楠野文書、六角文書および松尾家文書について、あわせて37本のマイクロフィルム撮影および複写を行った。松木文庫には、寛永11(1634)年7月の長崎平戸町の「人数改之帳」があり、現在確認されている宗門改帳タイプの史料で最古のものとされている(速水 1988,p.31)。また六角文書は、豊前国田川郡の史料であり、小倉藩の大庄屋の文書である。田川郡の村々の人別改帳や宗門改帳などが含まれている。また楠野文書は筑前国遠賀郡の天保期を中心にした村々の史料が収められている。さらに松尾家文書、正確には、名護屋松尾家文書は、唐津藩の大庄屋文書である。これらのいずれの史料もその内容についてまだ十分検討されてはいない。これらを全て含めて、九州地方では所在調査で確認できた人口関係資料1996点のうち、327点が収集されたのである。

 

1.2.2.4  史料が残された地域と今後の課題

 史料収集の際、いくつかの地域では、被差別問題等による文書の公開等に対する配慮から、撮影許可を得ることができなかったところがある。因幡国のK家文書がそのひとつであり、弘化2(1845)年の因幡国高草郡の全域をカヴァーする宗門改帳が含まれている。明治3(1870)年の備中賀陽郡、窪屋郡、小田郡、都宇郡の各村々についての同種の史料等とも比較が可能な貴重な史料である。鳥取県立博物館所蔵のものであるが、残念ながら今回は撮影することができなかった。同様の状況で撮影が難しかったのが、広島県竹原村の宗門改帳である。学術研究として不可欠な史料の公開が可能な限り進むことが望まれる。

いずれにしても、マクロ統計的分析の継続とともに今後は個別の地域研究も進められることが望まれる。肥後天草などの場合、高浜村の史料以外にも中田村の史料が断片的ではあるが残されている。美作について考察したように断片的な史料も利用価値がないわけではない(村山 1999)。天草の場合、海を隔てた野母村も含めて、周辺史料の保存状況もよく、今後の重点的な研究対象地域になりうる。また薩摩についても、武家社会と農村社会との関連という異なった問題設定を包括した歴史人口学的研究の好材料になると考える。いずれにしても、データベース構築のための多くの材料とともに、多くの地域研究の可能性をも含めた史料収集が行えたと考える。

 西日本地域について、個々の地域における史料状況の全体像を踏まえた上で史料収集を行ってきた結果として、多くの史料が残されてきた地域が、全てただの偶然によって保管され残されてきたのではない、ということも明らかになったと考える。今後の詳細な検討が必要であるが、残されるべくして残された史料も多く存在する。そのことは、今後、比較史料学的な地域研究とマクロ統計分析的な歴史人口学ならび家族史研究との新たな対話の接点にもなると考える。なお、本報告で紹介した宗門改帳は西日本地域で収集した史料の一部である。以上の他にも、広い意味での西日本に入る摂津国川辺郡の各町村、大阪道修町三丁目の宗門改帳等が磯田によって収集されたことを付記しておきたい。また今回未収集のもので、数十年以上の人口記録が残されているものとして特にとり上げる必要があるのは、播州新在家村の宗門改帳(『永富家文書目録』 1993)および豊後国日田郡五馬市村の宗門改帳(『別府大学附属博物館だより』 1999)などである。 










 


1.3 史料検討                  松浦

 

 歴史人口学の基礎的史料である宗門改帳については、これまでも多くの先達によってさまざまな角度から検討が加えられてきている。そこでは宗門改制度と人別改制度の関係や記載人口の範囲などが主として問題とされてきた。あるいは後述のように作成意図も大きな関心事であった。速水(1997)は、豊富な学識をもとに宗門改制度の成立・変容過程、記載内容、問題点などを平易に述べている。

 この宗門改帳は書式が区々で、記載内容も不統一である。表題名ひとつとってみても関連する史料を含めれば優に百を超えるであろう。それゆえこの史料を使って作業をおこなうさいには、一般性と個別性とのバランスを考慮することが大切となる。記載内容を検討するさいには、そのことに十分注意する必要がある。具体的には記載単位は何であるのか(家、家族、世帯)、家屋・年齢・持高・移動などは現実をどこまで反映しているのか、各単位の順番はどのような原則で帳面に記載されるのか、あるいは各単位内の順番はどうなのかといったように問題関心は多岐にわたっている。持高については、浜野(1996)が明治初年の物産調査データと近世の持高とを比較検討し、持高は農産額とは高い相関があるが非農産額とは必ずしも相関していないことを確認している。また宗門改帳の性格すなわち公証機能の有無、戸籍簿なのか単なる人事記録なのかといったことも解決しなければならない問題である。宗門改帳についての理解を深めるためにも、人別改帳、五人組帳、名寄帳、検地帳、過去帳などの他資料との比較は避けることのできない作業の一つである。具体的には高木(1995、1996a)が、19世紀東北日本において宗門改帳、過去帳、懐妊改帳を同時に使用して正確な人口動態検出を試みている。同様に鬼頭(1996c)も懐妊書上帳と宗門改帳を用いて、常陸国の農村について乳児死亡の実態を明らかにしようとしている。その結果従来よりも乳児死亡の補正は小さなものとなり、江戸時代後期農村の低い出生率は事実を反映していると述べている。この分野ではこの他にも多くの研究者によって優れた研究成果が生みだされているが、研究史を踏まえた検討は後日を期したい。さらに作成過程、作成月日、印判、集計値、支配関係など検討しなければならない事項は、たくさん残されている。作成過程については、東(1997a)が岡山藩について実証分析をおこない、宗門改帳の作成システムの変化や宗門改帳の作成方法・性格の違いが帳名に反映していることを明らかにしている。

 平井(1997a)は宗門人別改帳の記載形式や記載内容を通時的かつ地域横断的手法で分析することによって、当時の家族観の再構成を試みている。これは平井(1996)を要領よくまとめると、「(史料に)記載された家族」を読むという新しい方法で家族観を分析した結果、近世前半から後半にかけて()戸主を中心とした記載、()家単位を中心とした記載へと変化してきたことを指摘している。さらに宗門改帳と人別改帳の特徴も析出している。

 われわれは上述のさまざまな問題にアプローチするために、史料の収集、整理作業を進めている。今のところ延べ(町村数×年数)で8000近い表題名を主とする目録を収集し整理をおこなっているが、これからはさらに目録数の増加を図り本格的な検討を試みたいと考えている。ここでは簡単な観察事実の一つを紹介しておこう。キリシタンに「吉利支丹」という漢字を宛てることは、将軍徳川綱吉の諱を避けて延宝8(1680)年以降使用が禁止されたといわれている。これを契機にほとんどの地域で「吉利支丹」が「幾里支丹」や「切支丹」に切り替わっていく。しかし数少ないとはいえ例外も見受けられ、それ以降も讃岐、備前、越後、甲斐国諸村では「吉利支丹」の文字が使われた宗門改帳が残っている。なかでも越後国頸城郡の2村では1689年に至っても使用されている。現段階ではこれ以上の考察はおこなっていないが、こうした事実を積み重ねることによって、近世における情報伝達や幕府法令の効力などについて新たな知見を得ることができるかもしれない。また宗門改帳を作成していない地域があるのではないかという指摘がなされていたが、土佐、薩摩でもその存在が確認されはじめており、今後の調査次第では空白地域は解消するかもしれない。

 宗門改帳の作成目的については、基本的な問題でありながら実ははっきりしていない。キリシタン禁制がその目的ではないかと思われるが、必ずしもそうではない。事実上キリシタンの脅威が薄れた寛文期に宗門改制度が確立しているために、その時間的ズレを説明する必要があるのである。この点について速水は「島原・天草の乱以降、組織的なキリスト教徒の反乱はなくなったが、各地でいわば隠れキリシタンの存在が報告され、また転びキリシタン(かつてのキリスト教徒で、仏教への改宗を申し出た者)も生存していた時期なので、宗門改の全国的強化を通じ、幕府はその威信を固めようとしたものと考えられる。」と述べている(速水 1979,pp.54−5)。こうした理念的目的とは別にもう少し現実的な目的もあったはずである。たとえば人的移動の警戒や戸籍簿の役割といった見解が多くなされてきたが、これに対し松浦(近刊a)は寺請制に注目して宗門改めの主たる目的は原点に戻って宗教統制であると主張する。

 さらに東(1997b 報告資料)は宗門改め制度の付随的役割として、凶荒備蓄(岡山藩では宗旨改で代官が各家を廻るさいに、「頭銭」という凶荒に備えるための銭を集め、郡会所に備蓄することがあった)や年中行事(岡山藩や伊予大洲藩では宗門改めが終わると、各家で酒やごちそうを出して祝う習わしがあった)を挙げており興味深い。

 静態統計資料である宗門改帳の問題点を統計的手法を用いて克服しようとする試みもなされている。木下(1996)は、実際の出生数に対し宗門改帳に記録される乳児数の割合を求めるために、マイクロ・シミュレーションの手法を用いて推計をおこなっている。その結果宗門改帳に記録される乳児数は、全出生数の82パーセントから88パーセントであると結論づけている。さらに木下(1998)は宗門改帳の人口資料としての弱点である乳児死亡率について、次の2つの方法で推計を試みている。

() 従来型の宗門改帳(年に1回記録される)からの乳児死亡率の推計、() 大坂菊屋町型の宗門改帳(月々にイベントが記録される)からの乳児死亡率の推計。その結果()では210〜220パーミル、()では260パーミルという推計値を算出している。

 宗門改帳以外にも近世人口史料として活用できるものはたくさんある。そうした事例のいくつかを紹介しておこう。沢山(1996b)は、美作国籾保村医師仁木家に伝わる教諭書を紹介、分析したものである。従来間引実行者が女性であると描くことによって倫理的批判を女性に集中させてきたが、藩の側の出産管理という面も考慮しなければならないと指摘する。また間引の動機については貧困あるいは貧困からの脱出ではなく、家業の存続や「人並み」指向を重視している。沢山(1997c)は新たに発見された2枚の教諭書を分析している。そこには、男女が間引きをする情景が描かれている。間引き実行者が誰であるかを判断する上で貴重な史料である。さきに挙げた間引の動機についても、民衆が間引を正当化する理由や支配者が納得する理由を掲げたのではないかと指摘している。沢山(1999a)は、文化4(1807)年に成立した仙台藩の赤子養育仕法の特徴や18世紀後半以降に習俗化していた間引きの実態を示す史料を解説、紹介したものである。具体的には法令、地方文書(死胎披露書、赤子養育御手当願)、上書・意見書、教諭活動・教諭書、通俗実用医書である。そして間引きの動機の質も、時代の経過とともに貧困によるものから、生活水準維持を意識したものへと変化したのではないかと指摘している。

 溝口(1998b)は、尾張国に残る地誌、絵図、図会を使って、近世名古屋や尾張の土地条件、社会・経済状況、文化・景観をビジュアルに示した報告書である。人口については『寛文村々覚書』(1672)と『尾張徇行記』(1822)をもとに各年次の分析ならびに両者の比較検討を試みている。その結果、人口は町続き地では増加している一方で、その外縁部では減少が著しい。また平均世帯員数でも6.0人から4.2人へと小家族化が進行している。このほかにも数多くのデータが色彩豊かに示されており、ここから新たな研究分野、テーマが見出される可能性がきわめて高い。

 高木・千葉(1999)は、陸奥国東磐井郡増沢村の肝入が綴った家業、家人、公務などに関する1年間の記録を紹介、分析したものである。この記録から当時の人々の生活圏の広がりや、農業・農作業、旅行、娯楽、法事などの様子を窺い知ることができる。数量データだけでは分からない庶民の日常行動を理解することによって、より現実に近いイメージを手にすることができるであろう。今後ともこうした史料の発掘、分析が望まれる。

 松浦(近刊b)は『刈谷町庄屋留帳』の分析を通じて、移動理由が奉公人規制の寛厳によって変化していることを見出し、史料批判の重要性を指摘している。

 


1.4 出生                 津谷 典子

1.4.1 はじめに                                                                                   

本プロジェクトでは、奥州二本松藩に属する2農村の人別改帳のミクロ・データを用い、近世後期(18〜19世紀)のわが国の出生力のパターンと経済的および家族・世帯要因について、イベント・ヒストリー分析モデルによる多変量解析を中心に研究を行った。この研究ではさらに、同時期の清朝中国、ベルギー、イタリア、スウェーデンとの5カ国と国際比較することにより、近世日本の人口再生産の特徴とメカニズムを明らかにすることを目的とした。また日本については、工業化以前の社会における人口変動パターンやその要因、経済発展の水準や性質、および家族制度の大きな地域差に鑑み、東北地方の2村の出生力のレベルやパターンを、中部地方および西南地方の農・漁村のそれと比較することにより、近世日本における地域性と出生レジームの全体像を探ることも目的とした。

 本報告では、まずこのプロジェクトの分析対象となったコミュニティーの概要とその人口史料について説明し、つづいてその人口史料の長所と問題点について説明し、また多変量解析のためのデータ・ファイル(flat file)構築について述べる。次に、そのデータ・ファイルの分析結果を、形式人口学的分析と多変量解析に分けて示す。

 

1.4.2 人口史料とデータ

 まず、日本について、その分析対象となったコミュニティーの位置とその人口史料について説明すると、このプロジェクトの統計・計量的分析の中心となったのは、奥州二本松藩(現在の福島県中部)の下守屋村と仁井田村という2つの農村である。そして日本国内の比較として、濃尾地方の西條村という平坦部農村、および九州(現在の長崎県)の野母村という漁村を分析した(1)。これらの村の人口史料(人別改帳もしくは宗門改帳)は、現存するもののなかで量的にも質的にも最高と考えられる。なかでも二本松藩の2村は、その人口データの記載内容の精密さは特筆にあたいする。この2村の人口史料は人別改帳(NAC)であり、ほぼ連続して残存する人別改帳は下守屋村が正徳6(1716)〜明治2(1869)年の154年間、仁井田村が享保5(1720)〜明治3(1870)年の151年間にわたっており、そのうち欠年は下守屋が9カ年、仁井田が5カ年である。ここから計算される資料残存率はそれぞれ94%と97%であり、従ってこれら2村には江戸時代後半を網羅するほぼ完全な人口史料が存在することになる。また、国内における比較の対象となった西條村と野母村の人口史料はともに宗門改帳であり、前者で安永2(1773)年から明治2(1869)年の97年間、欠年のない連続した史料が存在し、後者の宗門改帳は明和3(1766)年から明治4(1871)年の105年間にわたっており、うち欠年は7カ年である。

 資料の残存率の高さに加え、この東北2村(および濃尾農村と九州漁村)の人口史料には以下のような長所がある。第一に、調査(人別もしくは宗門改め)が現住地主義によってなされている。従って、これらの村の人別・宗門改帳に記載されている人口は「現住人口('de facto' population)」である(2)。江戸時代の人別・宗門改めの大部分は「本籍人口('de jure' population)」を対象にしているが、現住地主義によって収集された史料のほうが、本籍地主義によるものよりも通常はるかに正確な情報をもたらすことができ、正確かつ詳細な人口分析を可能にする。

 第二に、これら2村の人別改帳には、人口規模や人口を構成する人々の性・年齢構造といったような人口静態(population statics)に関する情報のみでなく、出生、死亡、結婚とその解消、そして移動などの人口動態(population dynamics)を作り出すイベントも詳細に記載されている。例外は、ある年の調査の後出生し、次年度の調査の前に死亡した乳児であり、これらはすべて人別改帳の記載から漏れている。この死亡乳児の記載漏れは、おそらくわが国の人口史料としての人別改帳および宗門改帳がもつ最大の問題であり、この記載漏れは出生の分析に影響を与えることに留意しなくてはならない(3)。しかし同時に、記載されている人口イベント全般の正確さと情報の詳細さもまた重要であり、下守屋と仁井田の2村の人別改帳には、主要イベントである出生と死亡について、全てその発生タイミング(発生月)が記載されている(4)。人口イベントの発生月は人別・宗門改帳には記載されないことが多く、二度の連続した調査の間のどこかで起こったということしか分からない場合がほとんどであり、この2村は数少ない例外の一つである。さらに、人別改帳からの理由不明の消失が非常に少ないことも、この2村の人口史料の質の高さを示す証左となろう。理由不明の消失は、下守屋の154年間にわたる人別改帳に記載されている全消失のうち僅か0.6%(19件)であり、仁井田の場合はさらに少なく0.3%(13件)である。したがって、正徳6年〜明治3年における下守屋と仁井田の東北2村はかなりの人口の移出・入があったにもかからわず、この人別改帳データから、分析のために必要な出生イベントを経験する可能性のある人口[これを「リスク人口(population at risk)」と呼ぶ]および出生のタイミングに関する正確な情報を得ることができる。

 本来の人別改帳データは、個々人の記録を各世帯別に記載したものを各村毎年一冊ずつ作成している。分析のために、本研究プロジェクトでは、これらの年別の記録を個人(そしてそれらをまとめて世帯)別に連接することにより、個人とそれを含む世帯の時系列データを示すところの「ベーシック・データ・シート(Basic Data Sheets, 略してBDS)」を手で作成した。次に、このBDSをコンピュータに入力し、そこからリレーショナル・データ・ベース(relational data base)を構築した。このデータ・ベースには人別改帳に記載されているすべての情報が含まれているが、ここから、多変量解析のデータ・ファイルのために、村に在住する各個人および各世帯について過去、現在、そして未来の人口イベントおよびライフコース・イベントに関する様々な指標を構築することができ、また各個人の情報を親、子ども、兄弟、そして配偶者などの情報と連接して変数を構築することもできる。

 最後に、国際比較分析の対象となった他の4カ国の人口史料・データについて簡単に説明すると、この4カ国は全て、わが国の宗門改帳や人別改帳と同様の町村人口調査(local population registration)データをもつ国々であり、西洋歴史人口学研究で従来用いられてきた教区簿冊や系譜のみを用いた研究と異なり、分析の分母となるべきそのイベントを経験する可能性のある「リスク人口」についての情報が得られるという意味で、人口史料として優れている。また、分析の分子となるべきイベント(出生)に関する情報については、教区簿冊や系譜、および人口動態の届け出統計や世帯統計などが用いられている(5)

 

1.4.2 結婚および出生パターン:形式人口学的分析の結果

 出生のほとんどは結婚している女性(夫婦)に起こる(そして下守屋と仁井田の2村についてもそうであった)ことから、結婚パターンは出生レベルとパターンに大きな影響を与える。ここではまず、結婚の出生力への影響を探るため、男女の結婚の年齢パターンについて、下守屋・仁井田の東北2村を中心にした分析結果を示し、それと他地域の農・漁村のそれと比較する。さらに、年齢別出生率と年齢別有配偶率から出生力の年齢パターンを、そして合計特殊出生率と合計有配偶出生率から出生力水準を検討する。

 

1.4.2.1 結婚の年齢パターン

 表1には、正徳6(1716)〜明治3(1870)年の東北2村における性・年齢別配偶関係割合(パーセント分布)が示されている。この割合は、人別改帳に記載された人年(person years)を基に計算されたものである。この表に示されているように、東北2村における女性は早婚かつ皆婚であった。10〜14歳の女子のおよそ29%が既婚者であり、既婚者割合は女性の年齢が上昇するにしたがって急増し、15〜19歳では84%、そして20〜24歳では97%であった。また男性も、女性の場合ほど明確ではないが、早婚かつ皆婚の傾向は明らかである。男性の既婚者割合は15〜19歳では約38%であるが、20〜24歳では80%、そして25〜29歳では90%と上昇し、40歳代後半における未婚者割合は5%にすぎない。東北2村におけるこの早婚傾向は、人口動態平均初婚年齢 (Singulate Mean Age at Marriage, 略してSMAM) からも確認される。上記の年齢別配偶関係割合から計算されるSMAMは、女性が16.2歳、男性が19.6歳である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 工業化以前の日本における他の農・漁村における結婚のパターンをみても、皆婚傾向は明らかであるが、初婚タイミングは中央日本および西南日本では東北日本よりはるかに遅い。例えば、女性の初婚の中位年齢(median age)は、下守屋・仁井田の2村では15歳であるのに対し、中央日本の濃尾地方に位置する西條村では21歳、そして西南日本の九州の野母村では約23歳であった(Kurosu, Tsuya and Hamano 1999)。この東北2村における女性の平均初婚年齢は、同時代の清朝中国の東北地方農村のそれとほぼ同じである(Lee and Campbell 1997,p.88)。一方、九州の野母村の平均初婚年齢は、徳川時代のわが国の村落におけるものとしては記録されたなかで最高のもの1つであり、工業化以前のスウェーデンやベルギーなど、西欧の農村のそれに近い(Smith 1977,1986,Tsuya 1996)。したがって、この東北2村における早婚と皆婚に特徴づけられる初婚の年齢パターンは、近世後半のわが国における初婚レジ−ムにおいて典型的な「東北型」を示しており、一方野母村や西條村のそれは「西南型」に属すると考えられる。

 早婚と皆婚の普及に加えて、この東北2村の結婚パターンにおいて注目されるのは、離婚水準の高さである。年齢別配偶関係割合をみると、女性の場合は30歳代前半になるまで、そして男性は40歳代後半になるまで、離別者割合が死別者割合を上回っている。したがって、東北2村における女性の早婚は比較的高い離婚率と結びついていたと考えられるが、それらの離婚の多くは比較的若い年齢で起こっており、また離婚した女性は、かなり高い割合で離婚後あまり時間をおかず再婚していた(Kurosu, Tsuya and Hamano 1999)

 以上の結果から、結婚パターンの出生力への影響についてまとめると、女性の早婚と皆婚傾向は妊娠・出産のリスク人口を大きくするという意味で出生力、とくに有配偶出生力に対してプラスの影響があったと考えられる。早婚はかなり高水準の離婚と結びついていたけれども、離婚後あまり間をおかず多くの女性が再婚していたことを考えると、出生力に対する正の影響は大きかったと思われる。

 

1.4.2.2 出生力の水準と年齢パターン

 では、この東北2村における出生力水準と年齢パターンはどうであったのだろうか。表2には、人別改帳に記載された人年を単位にして計算された年齢別出生率と合計特殊出生率 (Total Fertility Rate, 略してTFR) の推移が示されている。教区簿冊を用いた従来の西洋歴史人口学研究では有配偶出生力 (marital fertility) の分析が中心であり、またその影響を強く受けたわが国の歴史人口学研究においても、この研究プロジェクト以前には、出生力全般 (overall fertility) についての分析はあまりなされなかった。一方、現代人口における出生力分析は合計特殊出生率をベースにするものが多く、出生力分析において近世社会と現代社会を結びつけるためには、有配偶出生力のみならず出生力全般に目を向ける必要がある。その意味で、本プロジェクトによる出生力研究への貢献は重要である。

 

 

 

 

 

 

 

 

   表2に示された結果から、3つの知見が得られる。第1に、この東北2村における出生力水準は、工業化以前の農村としてはかなり低い。正徳6〜明治3年の全期間におけるTFRは女性1人あたり3.0であり、10〜18%と推計される死亡乳児の記載漏れを考慮しても、この水準は1950年代初めの日本のTFRとほぼ同じである。

第2に、出生力の年齢パターンをみると、出生率は30歳代後半から突然低下を始め、女性の年齢が上がるにつれて、低下も急速である。これは、後述する有配偶出生力の分析でも確認されるが、子ども数による出生力の意図的制限(「家族規模制限」と呼ぶ)が広く行われていたことを示唆している。

第3に、出生力の期間別推移から、出生力は18世紀には低下傾向にあったが、19世紀に入ると増加に転じ、特に天保11(1840)年以降における増加傾向は著しい。この幕末のおよそ30年間、2村の人口はそれ以前の期間に比べて増加しており、その人口増加の一部は出生力水準の上昇によることが示唆される。

次に、有配偶出生力の水準と年齢パターンについてまとめると、出生力全般にみられたと同様の傾向・特徴がみられるが、それはより明確になっている(表3)。第1に、20〜49歳の年齢別有配偶出生率の和である合計有配偶出生率[TMFR]は、正徳6〜明治3年の東北2村では2.8という非常な低水準であり、この表に示されている他の徳川村落に比べても際だって低い。広く夫婦の出生力の意図的制限が行われていたとされる18世紀後半以降の横内村や清朝中国の東北地方農村でさえも、TMFRの水準は3.2〜3.8であり (速水1973,p.217−20; Wang et al. 1999)、また有配偶出生率の年齢パターンからみても、この東北2村では、強力な有配偶出生力制限が広く行われていたことが示唆される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方、九州地方の漁村である野母村や濃尾地方の農村である西條村およびナカハラでは、有配偶出生力の年齢パターンは高齢になるまでの引き続く出産(prolonged childbearing)を示しており、また有配偶出生力の水準も相当に高い。したがって、これらの農・漁村の出生力はスウェーデン、ベルギー、イタリアなどのヨーロッパ諸国の有配偶出生力水準に近く、これらの国々同様「自然出生力(natural fertility)」レジームにあると考えられる。

 

1.4.2.3 家族形成と間引き

以上の分析結果に示されたように、この東北2村では夫婦の出生力の意図的制限、とくに子ども数による制限であるところの「家族規模制限」が強力かつ広範に行われていたと考えれるが、ここではさらに、家族形成のパターンからみた出生児の性比(より正確に言うと人別改帳に記録された出生児の性比)を分析することにより、有配偶女性の出生力制限行動のメカニズムを探った。表4には、東北2村における生存子ども数とその性別構成からみた人別改帳に記録された出生児の性比(出生女児100人に対する出生男児数)が示されている。人為的な制限がなにも行われていない状態での出生児の性比は通常(女児100人に対して男児)104〜107であり、この表の分析結果は、この東北2村では生存児の数と性別による強力な家族規模制限が行われており、その制限は生まれた嬰児を間引き(infanticide)することによって成し遂げられたことを示している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 生存している子供がいない場合、夫婦は男児よりも女児をもつ確率がはるかにまた不自然に高くなっており(出生児の性比は約91)、これは第一子出生時における男児の間引きの可能性を示唆している。また、生存女児数がゼロの場合出生児の性比が、生存男児数にかかわらず全て100をかなり下回っていることから、この東北2村の夫婦は少なくとも1人は娘を持とうとした傾向が強かったことがわかる。しかし、一旦夫婦が娘を一人(多くの場合第一子として)もってしまうと、今度は女児よりも男児をもつ傾向が一転して強くなる。このような男子選好(son preference)傾向は、生存男児数がゼロの場合に特に明確に現れている。このような生存している息子がいない夫婦の出生児の性比は、生存女児数がゼロから1人、そして2人と増加するにしたがって、91から125、そして205へと急上昇している。これは、もし夫婦に娘が2人以上いて息子がいなかった場合、およそ2倍強の割合で女児よりも男児をもつ傾向があることを意味している。

 以上の結果から、18〜19世紀の東北2村において、子供数と子供の性別構成による強力な間引きが広く行われており、それによって超低水準の有配偶出生力が可能になっていたことがわかる。この近世東北日本の農村における間引きは、一方的に男児(もしくは女児)を選好されたという単純なものではなく、最終的な子供数(家族規模)を少なく抑えながら、子供の性別のバランスをとり、おそらく子供の性別による生存順位をもコントロールするという高度に洗練されたものであった。清朝中国の東北地方農村においても間引きは広く行われていたが、その対象はほぼ女児に限られていたことが報告されている(Lee and Campbell 1997; Wang et al. 1999)

 

1.4.3 出生力の決定要因:多変量解析の結果

1.4.3.1 モデルと変数

 本プロジェクトでは、以上の形式人口学的分析に加えて、イベントヒストリー分析モデルによる有配偶出生力の要因に関する多変量解析を行った。人別改帳の出生イベントの性質から、本分析で用いられたモデルは、不連続時間イベントヒストリー分析モデル(discrete-time event history analysis model)である(6)。このイベントヒストリー分析モデルは、女性がある人別改帳のお調べから次のお調べまでの12カ月間に結婚の中において出産するか否か(より正確に言うと出生が人別改帳に記載されるか否か)の確率を、一連のロジット回帰分析モデルを用いて、その女性がおかれている状況、つまり女性の人口学的、社会経済的、および世帯・家族の属性に結びつけて、その影響を推計するものである。分析対象となった東北2村における出生はほとんど全て結婚している女性に起こっており(つまり有配偶出生であり)、したがって、結婚の中における出生の要因に焦点を当てることは適切かつ必要である。

 本分析に用いられたデータ・ファイル(flat file)は人別改帳に記載されている女性の人年(person years)を基礎に構築されているため、各女性はほとんどの場合複数の記録(observation)をもつことになる。言い換えれば、同じ女性から得られる複数の記録は互いに依存(interdepend)することになり、このデータの構造からくる相互依存性はロジット回帰係数の推計値の標準誤差に影響を与える。このような相互依存性の標準誤差への影響をコントロールするため、本分析ではヒューバーの数式(Huber's formula)を使って標準誤差を推計した(7)。本プロジェクトにおける出生力分析のために、様々な説明変数およびコントロール変数を使い、数多くのモデルを推計した。また、上記の形式人口学的分析によって示されてように子供の性別による間引きによる有配偶出生力の意図的制限が広く行われており、また出生児の性別によって乳児死亡率も異なることから、全ての記録された出生を対象とした分析のみならず、出生児を男女別に分けた分析も行った。ここではそれらの分析結果を、他の国々の分析結果との比較もまじえて、まとめてみたい。

 具体的に、説明変数とコントロール変数について述べると、それらは(a)人口学的変数、(b)女性の結婚に関する変数、(c)女性の世帯・家族状況に関する変数、そして(d)社会経済的変数、の4つのグループに分けることができる。(a)の人口学的変数には、女性の年齢、第一子出生時の女性の年齢、最も最近の出産(もしくは結婚)からの年数などがあげられる。(b)の女性の結婚をめぐる変数は、夫婦間の年齢差、現在の結婚が初婚か再婚かなどであり、(c)の世帯・家族変数は、生存子供数とその性別構成、結婚している子供が世帯内にいるか否か、同居する親の有無、女子の戸主への関係(女性の世帯関係と呼ぶ)などである。そして(d)の社会経済変数は、世帯の持高、近隣の会津市場における米価、期間、そして女性の居住地(下守屋か仁井田か)を含む。これらの変数は、その性質と計量方法によって、女性個人レベルでの時間依存変数(individual time-dependent variables)、女性個人レベルでの時間独立変数(individual time-independent variables)、そして世帯もしくはコミュニティー・レベルの時間依存変数(household or community-level time-dependent variables)として構築された(8)

 

1.4.3.2 多変量解析の結果

 女性の年齢と結婚内における出生確率との関係は、期待されたように「逆J形」をとる曲線形であり、これは男児の出生と女児の出生の両方にみられた。また、最も最近の出産(もしくは結婚)からの年数は結婚における妊娠のリスクへのexposure期間を測るための変数であるが、この変数も統計的有意な影響をもち、有配偶出生確率との関係も曲線形であるが、最近の出産・結婚からの年数が5年を頂点とする凸形であった。つまり、出産もしくは結婚後5年目が最も女性の出生(出産)確率が高く、それ以前およびそれ以後は漸次結婚している女性の出産確率は低下したことがわかる。

 第一子出生時の女性の年齢と有配偶出生確率との関係もまた、統計的に有意でありかつその関係は凸形であった。具体的には、15〜17歳で第一子を出産した女性は、それよりも若い年齢もしくは上の年齢で第一子出産を経験した女性よりも、生涯(reproductive career)を通じて有意に高い有配偶出生確率を示した。言い換えると、15歳未満で最初の子供をもった少数の女性を除くと、第一子出産年齢と有配偶出生力との関係は負の関係にあったと言える。特に、25歳以上で第一子をもった女性の有配偶出生力は低く、この東北2村における早婚と皆婚傾向を考え合わせると、これらの女性たちは何らかの生理的に妊孕力が低い(つまりsubfecundな)者が多かったのではないかと考えられる。同様の曲線形の関係は、ピーク年齢は国によってことなるが、他の4カ国でもみられた。

 通常の5%のレベルでの統計的有意性はないが(しかし10%では有意である)、夫婦の年齢差も有配偶出生力に影響を与えた。夫と同年齢か夫との年齢差が6歳未満の妻たちと比較して、夫が6歳以上年上の女性たちの出生力は有意に低かった。これは、夫の高年齢が妊娠・出産に与える生理的・身体的な負の影響を示していると考えられるが、この変数の影響は女児の出生よりも男児の出生により強いことから、もし夫が妻よりもずっと年上であれば、夫婦は(意図的に)男児よりも女児を持とうとしたと考えることもできる。つまり、この変数が夫婦間の力関係(relative conjugal power)の近似変数であるとすれば、夫が妻よりもずっと年上であれば、夫婦の力関係は夫の方に傾くことになり、それは有配偶出生力(とくに男児の出生確率)を押し下げたということになる。

 一方、現在の結婚が女性にとって初婚か再婚かは有配偶出生力に有意な影響力を持たなかった。これは、再婚率がわが国よりもずっと低かったにもかかわらず、再婚における出生力が初婚における出生力よりも有意に低かった西欧の歴史人口とは対照的である。この東北日本の2村における最初の結婚の解消率の高さにもかかわらず、これが女性の有配偶出生力に影響を与えなかったということについては、二つの理由が考えられる。まず、第1の可能性は、非常に強力な家族規模制限が行なわれていたため(つまり自然出生力レジームからの乖離が大きかったため)、女性の結婚の解消が問題にならなかったということが考えられる。第2に、最初の結婚の解消が頻繁であったとはいえ、それは解消後比較的短期間での高い再婚率と結びついており、したがって結婚の解消の出生力への負の影響が最小限に抑えられていたということも考えられる。

 この東北2村の有配偶出生力に最も大きな影響を与えた要因は、予想されたように、生存子供数とその性別構成であった。少なくとも男女1人ずつの子供がいる女性に比べて、生存している子供がだれもいない女性の出産確率は非常に高く、またそのような場合、男児よりも女児を持つ確率が高かった。この結果によって、夫婦が第一子として息子よりも娘をもつ傾向が強かったことが確認される。また、娘しかいない女性の有配偶出生確率は、息子しかいない女性のそれよりも幾分高かったが、その差は大きくなかった。これは、この2村には明確な男子選好は存在せず、夫婦はむしろ子供の性別のバランスをとろうとしていたことが示される。しかし一旦娘を一人持った後は、夫婦は男児を持つ確率が有意に高かった。したがって、形式人口学的分析の結果が、他の説明変数の影響をコントロールした後もなお、非常に明確に維持されることがこの多変量解析の結果によって確認された。

 結婚した子供が世帯内に同居していることは、女性の有配偶出生確率、なかでも男児の出生確率を有意に低下させた。徳川時代の農村において結婚と出産の最終的目的が家を継承する次世代を生み残すことにあったとすると、子供(そのほとんどは息子)が結婚して同居しているということは、これ以上の出産の必要性をなくすることを意味した。この2村における女性の早婚と比較的若い年齢での第一子出産傾向を考え合わせると、この結果はまた、この2村の女性の比較的若い年齢での出産の(意図的)停止の理由を示してもいる。

 女性の世帯内関係もまた、有配偶出生力に有意な影響を与えた。戸主と親族関係をもたない非親族や下女の女性は、親族関係にある女性と比べて、有配偶出生確率ははるかに低かった。子供をもつためには経済的なリソースが必要であり、また非親族の女性や下女が子供をもつことは不便かつ不適切であるとみなされていたと考えられることから、この結果は予想されたものと言える。

 一方、予想とは異なって、持高によって測られた世帯の経済的地位は有配偶出生力になんら有意な影響力をもたなかった。これは、他の中国や西欧の4カ国とは対照的な結果であり、この東北日本の2村では、豊かな世帯か貧しい世帯かにかかわらず、夫婦は意図的な子供数の制限を行っていたことを示唆している。また、会津市場における米価の変動もこの2村の有配偶出生力に影響を与えなかった。この結果は、当該年の米価でも一年前の米価でも同じであったが、これは地域の経済状況がこれら農村の夫婦の出生力と無関係であったことを必ずしも意味しない。むしろこの結果は、他の先行研究(Skinner 1987; Smith 1977,pp.59−85)によって示唆されたように、間引きや堕胎による家族規模制限は経済的および環境的な困難時に限られていなかったと解釈される。

 また、この東北2村における有配偶出生力には有意な期間別差異がみられた。最初の正徳6〜宝暦9年に比べて、有配偶出生力は19世紀に入ると有意に高くなり、また期間が後になるにしたがって、その水準は上昇した。この結果によって、形式人口学的分析の結果が確認される。

 

1.4.4 まとめ

 結婚と出生パターンの形式人口学的分析によって、18〜19世紀の下守屋と仁井田の奥州2農村における出生率は低く、有配偶出生率はさらに低かったことがわかった。また、出生率と有配偶出生率の年齢パターンから、この2村では夫婦の子供数による強力な家族規模制限が広く行われていたことが示唆された。さらに、生存子供数と性別構成による出生児の性比から、間引きを用いた子供の性別および出生順位による強い家族規模制限が行われていたことが確認された。

 また、不連続時間イベント・ヒストリー分析モデルを用いた、有配偶出生確率の要因の分析によって、形式人口学的分析の結果が多変量解析の環境の下で確認された。なかでも生存子供数と性別構成の出生力への影響は大きく、これが非常に低い有配偶出生力の要因の一つであったことが示された。また、結婚している子供が同居していることは有配偶出生力を有意に押し下げることが示されたが、これは比較的若い年齢での女性の出産の停止の要因の一つであると考えられる。さらに、世帯の持ち高や米価の変動といった経済的要因は有配偶出生力に有意な影響を及ぼさなかったことから、世帯や地域の経済状況にかかわらず、強力な出生力の意図的制限がこの2村の夫婦によって行われていたことが示唆された。

 これらの分析結果は、徳川時代東北地方農村の夫婦は、間引きを通じて、子供数とその性別構成をコントロールするために強力な出生力制限を行っていたことをしめしているが、それはおそらく家族・世帯の経済的および社会的効用(utility)を最大化することを目指していたのではないか。子供数を制限することによって、世帯や家族にかかる負担を削減すると同時に、子供の性別と出生順位をコントロールすることにより、家の継承を確実なものにしながら子供たちのwell-beingを増加させようとしたのではないだろうか。本プロジェクトの分析により、工業化以前のわが国の村落における出生力が、どのように社会経済的および世帯・家族の要因に影響されたのかという複雑かつ微妙なメカニズムが明らかにされたと考えることができる。

 

 

 

 

(1)それぞれの村落の位置、地勢、および社会経済的背景の詳細は、下守屋と仁井田については、成松(1985、1992)とNagata et al. (1998)を、西條については速水(1992)を、そして野母については津谷(近刊a)Tsuya(1996)を参照されたい。

(2)これらの村の人別改帳もしくは宗門改帳には、現住人口だけでなく本籍人口についての情報も記載されている。

(3)死亡乳児の記載漏れの割合については、現在の福島県南部に位置した陸奥国白河郡中石井村の「懐妊書き上げ帳」を用いた詳細な分析が、このプロジェクトの一環としてなされている。詳細はTsuya and Tomobe(1998)を参照されたい。

(4)西條村の宗門改帳には人口イベントの発生月の記載はないが、野母村の宗門改帳には結婚と離婚を除く主要人口イベントの発生タイミングに関する詳細な記載がある。

(5)これら5カ国の人口史料と出生データの詳細は、ベルギーについてはAlter and Oris (1999)、イタリアについてはBreschi et al. (1999a,1999b)、スウェーデンについてはBengtsson et al.(1999)、そして中国についてはWang et al. (1999)を参照されたい。

(6)イベントヒストリー分析モデルについての詳細は、津谷(近刊b)Allison (1984)、およびYamaguchi (1991)を参照されたい。

(7)ヒューバーの数式によって推計される標準誤差はrobust standard errorsとよばれる。詳細はHumber (1967)を参照されたい。また、同じ統計処理と数式が、ヒューバーとは全く別個に計量経済学者のホワイトによってその後提示されており、Huber's formula White's method(ホワイトの方法)とも呼ばれる。詳細は、White (1980)を参照されたい。

(8)これらの説明変数の内容のさらなる詳細は、Tsuya and Kurosu (1998a,1999,forthcoming b)を参照されたい。


 

1.5 死亡                 木下 太志 

1.5.1 はじめに

 死亡の分野におけるEAPプロジェクトの成果は、他の分野同様に多岐にわたるが、まず誰の目にも明らかなのは、日本の歴史人口学者が対象とできる研究地域が拡大したことである。具体的には、速水が扱った大坂菊屋町、高橋が扱った郡山、村山が扱った美作国の村々などがその代表例である。このことは、単に量的に研究対象が増えたというだけではなく、質的に拡大したことを意味している。というのは、従来の研究では、史料(特に宗門改帳)の保存状況の良い農村に住む農民の人口学的特徴の研究が中心であったが、EAPプロジェクトは農村以外でも歴史人口学の研究が可能であることを示した。菊屋町は当時の大都市大坂の中心地であるし、陸奥郡山は奥州街道沿いの宿場町であり、在郷町であった。また、村越は農民ではなく、大名の乳幼児死亡について研究した。このように、研究対象の量的な拡大のみならず、質的な深化はEAPプロジェクトの成果である。

 EAPプロジェクトの研究内容については、それが多方面にわたるため、限られた紙面でまとめることは困難であるが、ここでは、プロジェクトの研究成果をその内容によって5つの分野に分け、それぞれの分野における研究成果の概略を述べた後、個別の論文に関するまとめをつけ加えることにする。研究成果の5つの分野とは、1)乳幼児死亡に関するもの、2)飢饉あるいは死亡危機(mortality crisis)に関するもの、3)間引きや堕胎などの出生制限に関するもの、4)死亡に影響を与える要因に関するもの、5)特定の死因に関するものである。

 

1.5.2 研究成果の概略

1.5.2.1 乳幼児死亡に関するもの

 歴史人口学者が主なデータソースとしてきた宗門改帳からは、正確な乳児死亡率が算出できないということが、日本の歴史人口学始まって以来の課題であったが、これについて、いくつかのブレークスルーがEAPプロジェクトにおいてなされた。まず、速水は農村の宗門改帳とは記載内容が異なる大坂菊屋町の宗門改帳を使って、都市の乳児死亡率を推計した。また、高橋は宿場町であった郡山の乳児死亡率、村越は大名の乳幼児死亡率を推計した。さらに、木下は宗門改帳の記録から乳児死亡率を間接的に推計する方法を考案した。

前工業期の都市は、死亡率が高く、その周囲の農村も含めた地域の一種のブラックホールとして機能していたという仮説は、Wrigley Sharlin、速水(彼は「都市蟻地獄説」と呼んでいる)などによって検討されてきた。EAPプロジェクトでは、この仮説に対して賛否両方の結論が出された。すなわち、速水の研究はこの仮説を支持する一方、高橋と村越の研究はそれ程明確に支持していない。

 

1.5.2.2 飢饉あるいは死亡危機に関するもの

人口に対して飢饉あるいは死亡危機が持つ影響は、日本国内、あるいは同一地域内においてもかなりの地域差があった。したがって、ある地域や村の状況から、他の地域、ましてや日本全体の状況を推し量ることは賢明ではない。また、死亡危機の際の死亡構造には、男女間で明白な差があることもわかった。

 

1.5.2.3 間引きや堕胎などの出生制限に関するもの

日本の歴史人口学では、このトピックは古くから議論されているものであるが、友部は出生制限について否定的結論を出したのに対して、川口は肯定的な結論を出した。すなわち、T. C. Smithなどにより、徳川期における性選別的出生制限の存在は指摘されてきたが、それは世帯内の性比のバランスをとるということがその動機としてあげられてきた。しかし、このような性選別的な出生制限は実証的には検証されてはおらず、疑問視される向きもあった。川口は、農民の間に性選別的出生制限があったとしながらも、Smithなどとは違った理由、すなわち、出生制限は、生まれた子供が「たがい子」であるがどうかという風習によってなされたことを指摘した。今後の研究により、徳川期にこのような風習がどの程度根付いていたのかを明らかにしていく必要があろう。

 

1.5.2.4 死亡に影響を与える要因に関するもの

ここでは、津谷と黒須を中心に、イベントヒストリーアナリシスを使った分析がなされた。通常の死亡分析では、死因と死亡率の関係が重要となるが、EAPプロジェクトでは、死因の代わりに、社会経済的要因と死亡率の関係に焦点が絞られた。その結果、社会経済的要因や世帯内での関係が死亡率に与える影響は、個人の性別やライフステージによって異なるなどの知見が得られた。

 

1.5.2.5 特定の死因に関するもの

 歴史人口学では、通常、死因別に死亡の研究がなされることは稀であるが、川口はある陰陽師の日記から、種痘の導入の効果について詳しい研究を行った。

 

1.5.3 個別論文のまとめ

以下は、上の5つ分野における個別論文のまとめである。これらのまとめは、EAPペーパーシリーズになっているものに限らせていただいた。また、各分野における論文の順番は、EAPプロジェクト内の研究経過がよくわかるように、論文の発表・発行年の順とした。

 

1.5.3.1 乳幼児死亡に関するもの

1.高橋美由紀 「近世奥州郡山における乳児死亡」(1996 EAP Conference Paper Series No.)

 この論文は、奥州街道沿いの宿場町である郡山の宗門改帳を分析したものである。この研究は、郡山が農村ではなく宿場町であるという点、およびその宗門改帳には、人口政策の一環として、出生した乳児の状態(病気や死亡など)が記録されているという点において、日本歴史人口学ではユニークな位置を占める。郡山の宗門改帳には、出生した乳児についての記録がなされているとは言え、すべての乳児について記録されているわけではない。したがって、乳児死亡率を推計するには、いくつかの仮定を置かなければならないが、高橋の推計によると、郡山の乳児死亡率はそれ程高くはなく、周辺の農村のものと同程度であったとしている。(しかしながら、高橋はこの推計は最終的なものではないともしている。)今後の研究によって、郡山のような、都市でも農村でもない在郷町の人口学的特徴が解明されていくであろう。

2.木下太志 「記録されなかった出生−人口人類学におけるシミュレーション研究−」(1996 国立民族学博物館研究報告 211(),pp.877−919,1997 EAP Off-Print Series No.)

 この論文は、日本の歴史人口学において、長い間未解決であった問題を扱った。それは、宗門改帳における出生の過少記録に関する問題である。この問題は、宗門改帳から乳児死亡率だけでなはく、出生率をも正確に推計することを妨げており、日本の歴史人口学の発展のネックとなってきた。この論文の前半部分では、「初年死亡率」という指標を想定し、宗門改帳の記録から正確な乳児死亡率を推計する方法を検討した。後半部分では、マイクロシミュレーションを使って、宗門改帳における出生の過少記録のレベルについて検証している。シミュレーションの結果、徳川時代の東北地方における乳児死亡率のレベルでは、宗門改帳に記録された出生は、実際の出生よりも15%から18%程度過少に記録されている可能性が高いことがわかった。近年の歴史人口学の研究では、このレベルを20%と仮定することが多かったが、この論文の結果からすると、この仮定はやや過大に見積もられているという結論が導き出された。

3.村越一哲 「大名の乳幼児死亡率 1651−1850年〜華族系譜の分析〜」(1999「人口学研究」24,pp.15−31,1999EAP Working Paper Series No.)

 この論文は、明治初期に作成された「華族系譜」を基礎に、徳川期の大名の乳幼児死亡について検証し、以下の知見を得た。

() 大名の乳幼児死亡率は、18世紀中盤から幕末にかけて増加する傾向にあった。

() 大名の乳幼児死亡率は、農民のそれと同程度か、あるいはやや上回る程度であった。

() ところが、幼児期(1歳から5歳まで)については、大名の死亡率が農民のものをかなり上回っていた。しかし、都市の中心地である大坂の菊屋町でみられた死亡率よりも低い。

() 大名の高い乳幼児死亡率については、彼らが居住する地域の人口密度の高さがその原因のひとつとして考えられるが、その解明については今後の研究を必要とする。

4.速水融「近世後期大坂菊屋町の人口と乳幼児死亡」(1999 千葉大学経済研究13():353−387,1999 EAP Off-Print Series 17)

 この論文は、大坂の中心地である菊屋町の宗門改帳を使って、徳川期における都市人口の特徴の一端を明らかにした。残念ながら、史料の性質上、都市人口のすべてを明らかにできたわけではないが、以下のような重要な発見がなされた。

() 菊屋町の乳児死亡率は、250〜270パーミルと推計され、いくつか測定されている農村の乳児死亡率よりも高い。これまで研究された農村の乳児死亡率には幅があるが、これを200パーミルとすれば、菊屋町の乳児死亡率は、これよりも50〜70パーミルも高いことになる。

() 幼児死亡率(1歳から5歳までの死亡率)についても、菊屋町のものは農村(たとえば美濃国西条村)のものに比べて、10〜20パーミル程度高い。

() 都市住民の流動性は高い。たとえば、この町の宗門改帳に記録された世帯の3割の居住期間は1年未満であった。また、居住期間が3年未満の世帯を合計すれば、全体の6割にも達した。

() 菊屋町の人口の趨勢をみると、男子人口の変動の幅が大きい一方、女子人口のそれは小さい。したがって、男子人口の趨勢が菊屋町全体の人口の趨勢により大きな影響を与えた。  

 

1.5.3.2 飢饉あるいは死亡危機に関するもの

1.Futoshi KINOSHITA  "Mortality Crises in Tokugawa Japan 1760−1870" (1998 Japan Review 10,pp.53−71、1995  EAP Conference Paper Series No.) 

 この論文では、東北地方の農村の宗門改帳を基礎に、死亡率が顕著に高い年(死亡危機)における死亡構造を村レベルで明らかにした。得られた主な知見は、以下のようである。

() 徳川期の死亡危機は、従来考えられていたよりも頻繁に発生した。享保、天明、天保という、いわゆる三大飢饉は、数多く発生した死亡危機のほんの一部にしか過ぎない。したがって、死亡危機を人口学的に理解しようとすれば、三大飢饉にのみ着目するのは適切ではない。

() 死亡危機は、農作物、特に米麦作の豊凶もさることながら、伝染病の発生と密接な関係があった。

() 死亡危機がもたらす被害の程度は、同じ地方(たとえば、東北地方)においてもかなりの地域差がある。したがって、一地域の被害程度をもって、他地域の、あるいは日本全体の被害を推し測ることは賢明ではない。

() 死亡危機における死亡構造は、平常時のそれとは顕著に異なる。このことは、単に死亡数の多寡だけではなく、死亡の年齢分布、および死亡率と社会経済階層の関係についても言えることである。

2.Akira HAYAMI "Population and Family in Crisis: A Study of North-eastern Japan in the Late Eighteenth Century" (1996 EAP Off-Print Series No.)

 この論文は、徳川幕府による人口調査をもとに、日本全体と東北地方の人口の趨勢を概観した後、宗門改帳を基礎に福島県郡山およびその周辺3村の人口すう勢を検証している。この論文で検討された地域あるいは村(陸奥国、出羽国、米沢藩、郡山、その周辺3村)では、18世紀から19世紀にかけて、人口の性比が低下していたことが指摘されている。特に、郡山に関しては、19世紀に入ると、性比が逆転し、女子の人口が男子の人口を上回っていたことが報告されている。また、この論文では、郡山およびその周辺の村の普通死亡率が30パーミル前後であったこと、また両者のすう勢が酷似していたことも指摘されている。

3.Osamu SAITO "Famine and Mortality in the Japanese Past: with Special Reference to the Eighteenth and Nineteenth Centuries" (1996 EAP Conference Paper Series No.) 

  江戸幕府によって実施された人口集計からわかる日本全体の人口趨勢と飢饉・伝染病の頻度の関係を中心に検証し、以下のような知見を得た。

() 日本全体の人口すう勢に対する伝染病と飢饉の頻度の影響をみると、後者のほうがそのインパクトは大きい。また、三大飢饉のような大きな飢饉だけではなく、小さな飢饉の影響も見逃すことはできない。

() 江戸時代の三大飢饉(享保、天明、天保)のうち、最後に起きた天保飢饉は人口に甚大な影響を与えた。

() 天保飢饉のような大きな飢饉を除いて、通常の飢饉の後、人口は素早く元のレベルまで回復することができる。

() 19世紀の後半になり、大きな飢饉が歴史から消えると、人口増加が始まり、これが明治期まで続いていく。

4.村山聡「天保の危機と美作国の地域性」(1996 EAP Conferencce Paper Series No.)

 この論文では、美作国の人口統計を基礎に天保飢饉に関し、以下のことを明らかにした。

() 人口の増減を通して、天保飢饉の被害の程度をみると、明らかな地域性がみられる。これは美作国とその周囲の国についてだけではなく、美作国の内部についても言えることである。

() 飢饉時には、人口の性比が低下するという傾向がみられるが、これは飢饉時に男子の死亡が女子の死亡を上回ることが原因である。

5.高木正朗・森田潤司「19世紀中期東北日本の飢饉と庶民の栄養供給状態〜仙台領大篭村『施殻帳』を用いた一推計」(1999 日本研究 19,pp.159−201、1997 EAP Working Paper Series No.)

 この論文は、東北地方の仙台領の村に残る史料から、天保飢饉時と平常時の農民の消費カロリーを比較し、以下のような知見を得た。

() 平常時における1消費単位あたりの栄養供給量は823kcal程度であるが、飢饉時になると、これが95〜140kcalにまで低下し、平常時の1/7程度のカロリーしか供給されなかった。

() 平常時における栄養所要量充足率と社会経済階層の関係をみると、下民以上の自立世帯では栄養が充足していたと考えられる一方、無高と下世帯については十分には充足されていない。

() 平常時の栄養素供給については、第二次世界大戦後の状態よりも、むしろ江戸期の状態のほうがよい。これは、この地域における人口増加により、一人あたりの栄養素供給量が減ったためと考えられる。

 

1.5.3.3 間引きや堕胎などの出生制限に関するもの

1.友部謙一 「徳川農村における『出生力』とその近接要因について〜『間引き』説の批判と近世から近代の農村母性をめぐる考察〜」(1996 Conference Paper Series No.)

 かつてHanleyYamamuraは、徳川期の農民は彼らの生活水準を維持・向上させようとする動機から、間引きや堕胎を行い、その結果彼らの出生率は低かったと主張した。友部は、この論文でコール・トラッセルの「M・m」という分析枠組みを使いながら、農民が自ら間引きや堕胎などの出生制限を選択したわけではなく、むしろ慢性的な貧困や飢饉によって、農民の生物学的妊孕力(fecundity)が低かったため、出生率も低かったと推論した。

2.川口洋「17〜19世紀の会津・南山御蔵入領における人口変動と出生制限」(1999歴史地理学 40(),pp.5−25,1999 EAP Off-Print Series No.18)  

 この論文は、福島県と栃木県にまたがる南山御蔵入領に残る人口史料を使って、人口変動と出生制限について研究し、以下の知見を得た。

() 時代とともに、この地域の性比は漸減しているが、これは性選別的な出生制限が徐々に緩和されてきた結果であると考えられる。

() このことは、この地域に住んでいた商人の日記の記述によって裏付けられる。すなわち、当時、出生する乳児の性別をうらなう風習があったが、もしその占いがあたらないと、その乳児は「たがい子」と呼ばれ、父母に縁のない子、育たない子と判断され「子返し」が行われた。この占いは、女児にとっては不利になっており、女児が押返される確率は男児の2倍となっていた。したがって、このような性選別的な出生制限が徐々に緩和されていくと、人口の性比は低下していくことになる。

 

1.5.3.4 死亡に影響を与える要因に関するもの

1.Kiyoshi HAMANO "Marriage Pattern and Demographic System in Tokugawa Japan"(1996 EAP Conference Paper Series No.)

 この論文では、西ヨーロッパと中国との比較研究という立場から、徳川期における日本の結婚形態が主に検討されている。死亡に関しては、長州藩のShibuki村の史料から、普通死亡率が普通婚姻率と正の相関を持っていることが指摘された。この意味については、今後の研究で明らかにしていく必要があろう。

2.Noriko O. Tsuya, Satomi Kurosu, and Ken'ichi Tomobe  " Effects of Household Structure and Relationship on Mortality in Early Modern Japan: The Case of the Village of Shimomoriya 1716−1869" (1996 EAP Conference Paper Series No.12)

 この論文は、現福島県郡山市内に位置していた旧下守屋村の宗門改帳をもとに、イベントヒストリー分析を使って、この村の農民の死亡とそれに関係する要因を検証した。主な結果は、以下の通りである。

() 男子の幼児(1歳から15歳)死亡は、世帯の衛生状態(密集の状態、飲み水など)に強く影響される。一方、女子の場合は、世帯の衛生状態に加えて、米価、世帯の持ち高などに左右される。

() 15歳から54歳の死亡については、世帯の衛生状態に加えて、持高、有配偶状態、世帯主との関係などの影響が強い。

() 55歳以上の死亡に関しては、世帯の持高の影響が強いが、女子については、共住している子や孫からの保護も生存のための重要な要因となる。

3.Noriko O. Tsuya. and Satomi Kurosu "Mortality Responses to Economic Stress and Household Context in Eighteenth and Nineteenth Centuty Rural Japan"  (1997 EAP Conference Paper Series No.14)

 2と同じ。

4.Noriko O. Tsuya, Satomi Kurosu, and Hideki Nakazato "Mortality in Early Modern Japan: Patterns and Correlates" (1997EAP Conference Paper Series No.20)

 この論文は、現福島県内に位置していた旧下守屋村と旧仁井田村の宗門改帳をもとに、イベントヒストリー分析を使って、社会経済的要因や世帯内での関係が死亡率に与える影響を検証した。主な結果は、以下の通りである。

() 社会経済的要因や世帯内での関係が死亡率に与える影響は、個人の性別やライフステージによって異なる。まず乳児死亡については、女児の死亡は米価と世帯の持ち高によって強く左右されるが、男子の場合はこの関係が弱い。また、幼児についても、乳児の場合と同様な関係が見られる。

() 成人と老人の死亡については、乳幼児の場合とは逆に、男子の死亡が社会経済的要因や世帯内での関係によって強く左右されるのに対して、女子の場合にはこの関係は弱い。

5.Hiroshi Kojima "Environmental Determinants of Demographic and Health Behaviours in Asian Countries" (1997 EAP Off-Print Series No.)

  この論文は、Demographic and Health Surveys (DHS)を使って、アジア諸国における都市環境(上下水道、石鹸の使用、トイレの状況など)と人口学的要素(流産の頻度、幼児の下痢と死亡率など)との関係を検証した。その結果、これらの国々では、都市環境は人口学的要素に良い影響と悪い影響の両方を与えるものの、都市への流入者は、その居住地域の好ましくない居住環境により、悪い影響を蒙ることが多いということが確認された。

6.Noriko O. Tsuya. and Satomi Kurosu "The Mortality Effects of Adult Male Death on Women and Children in Household in Eighteennth and Nineteenth Century Rural Japan: Evidence from Two Northeastern Villages" (1998 EAP Working Paper Series No.22)

 この論文は、現福島県内に位置していた旧下守屋村と旧仁井田村の宗門改帳をもとに、イベントヒストリー分析を使って、成人男子の死亡が同世帯内の女や子供の死亡に与える影響を検証した。主な結果は、以下の通りである。

() 男子世帯主の死亡は、同世帯内の女子の死亡確率を上げる。同様に、世帯主でない男子の死亡も同世帯内の女子の死亡確率を上げる。また、夫の死亡は、世帯内の成人有配偶女子の死亡確率に強く影響する。

() 男子世帯主の死亡は、同世帯内の2歳から14歳の子供(特に女子)の死亡確率を上げる。世帯主でない男子の死亡の影響はこれよりやや弱い。父親の死亡は、世帯内の子供の死亡確率に強く影響する。ただし、子供の性別によって、成人男子(父親など)の死亡の影響の程度は異なる。

 

1.5.3.5 特定の死因に関するもの

Hiroshi KAWAGUCHI "Smallpox in Tokugawa Japan" (1998 EAP Conference Paper Series No.24)

 この論文では、徳川期の武蔵国多摩郡中藤村に住んでいた指田藤詮という陰陽師の日記をもとに、当時導入された種痘の効果について検討されている。指田の日記によると、この村には1852年に種痘が初めて導入されたが、これによって、全死因中における天然痘の死因が激減したと同時に、この病気の致死率も低下したことがわかる。指田の日記には、このことが具体的な数字をもって示されている。


1.6  結婚                 黒須 里美

1.6.1 はじめに

  「結婚」は家族システムと人口システムのかなめであるにもかかわらず、その統計手法やデータの制限のために、これまで単一的なアプローチしかとられてきていなかった。ユーラシアプロジェクトにおける結婚研究の成果は、少なくとも方法論とアプローチ、そして良質な時系列データの有効利用によってより的確に人口システムと家族システムのつながりと社会経済的背景の中に結婚の地域差をとらえたことだといえよう。プロジェクトの成果としては次の4点に整理することができる。

() 結婚の捉え方:アットリスク人口の考慮と「年齢」の再考

() 人口学的手法の導入(SMAM,生命表、イベントヒストリー)

() 地域差にみる結婚パターン

() 前日本の人口システムと家族システムのかなめとしての結婚

以下、これらの各項目に付いて、先行研究の問題点と本プロジェクトにおける成果を明らかにし、今後の課題を検討していく。

 

1.6.2 アットリスク人口と年齢の考慮

 ユーラシアプロジェクトの国際比較研究により、また現代資料を扱う人口学の知見から、どう「結婚」をとらえるか、またアットリスク人口はだれかという基本的な概念の整理の重要性が明らかになった。歴史人口学における結婚研究はこれまで「結婚」の定義について意外と確認されないままであった。そこで『民事慣例類集』や人類学的研究なども含めて記載のタイミングや方法などにおける地域の違いを確認することも試みられた(Ochiai 1999c)。歴史人口学班で「結婚」を扱う場合、やはりその史料の記載に忠実になるほかはない。

より大きな問題は、地域差が論じられる場合、その「平均初婚年齢」とされるものがどのように算出されているかということをあまり考慮してこなかったことである。まず「平均」の算出において、どこまでを初婚の可能性のある人口(population at risk)とするかによってその平均値にはかなり誤差が出てくる。例えば、従来の方法である、村内出生人口のみを扱ったり、ある一定の年齢まで(例えば作為的に10歳までに史料に登場した人を抽出)の人口のみを含めることによって、平均値が下方に推計されるというバイアスが生じる。もう一つの問題は「年齢」そのものである。グレゴリオ暦を使っていない宗門改帳・人別改帳は、年齢をどう処理するかによっても誤差がでてきてしまう。ヨーロッパのように教区簿冊や人口登録簿に記入されるイベントとしての「結婚」と違って、徳川日本の庶民の結婚はその発生自体が一時点として明確にできないプロセスである。そこで宗門改帳・人別改帳が記録された「縁付け」などの表記や続柄の変化から結婚は判断されることになる。これまでユーラシアプロジェクトで収集された宗門改帳・人別改帳の多くにはイベントの月日の記載がないため、結婚記載のあった年から出生年を差し引くことによって結婚年齢を算出した。しかし、この場合、いつが調査の月かによって、本来は1−2歳の年齢の誤差がでてくることはいなめない。これらの点を明確にしないまま、単に平均値のみを比べることはあまり意味のないことだといえよう。

そこで、まずアットリスク人口と「宗門帳年齢」を明らかにして、平均値を算出しなおした。例えば、現在の福島県、岐阜県、そして長崎県の史料を用い、東北、中央、西南日本という三地域における結婚パターンの研究は、婚姻や子どもをもつ記録のない50歳未満の移住者を含めた場合、村内出生のみの場合など、アットリスク人口を変えて比較もされた(Kurosu, Tsuya and Hamano 1999)。この結果、より信頼のおけるデータと統計手法による地域比較が可能となったのである。

 

1.6.3 人口学的手法の導入(SMAM・生命表・イベントヒストリー)

 アットリスク人口という人口学において重要な基本概念を整理し直した上で、さらに現代人口学からの統計的方法を応用することができた。単なる平均値のみでなく、SMAM (Singulate Mean Age at Marriage) という年齢ごとの未婚割合を考慮に入れた方法や結婚生命表の利用である。これらの方法は現代の人口研究には一般的に利用されているが、これまでの歴史人口学ではデータの制限があったせいか、適用されてこなかった。大量の時系列データにこれらの方法を応用することにより、より正確な地域比較が可能になったのである(Tsuya and Kurosu 1998a Murayama forthcoming)

生命表の応用は平均値や分散よりもダイナミックに、未婚という状態から結婚という状態に年齢を経て変化していく様子を表すことができる。これまで、婚前の奉公などによる村外移動が多い中央日本の史料などで、長期離村して帰ってきたものについては結婚経歴が全く分からないという大きな問題があった。これは、50歳時点で結婚の経験があるかどうかという、「生涯未婚率」の推計に非常に影響してくる。これについても注意して扱わなくてはならないものの、単なるクロス集計で生涯未婚率を算出する方法から、生命表(初婚表)を使うことにより未婚でいる人口を年齢別に推計することができた(Kurosu 1998a; 浜野・黒須・森本 1998)。

 さらにイベントヒストリー分析法を利用し、結婚の可能性の要因を地域、世帯、個人の属性によって推計した。地域比較やイベントヒストリー分析の詳細に付いては下記に述べる。

  これら、定義の再確認、そして人口学的方法の応用によって、従来、特にヨーロッパの歴史人口学で結婚分析の中心となってきた初婚年齢・生涯未婚率という指標を超えることができたといえよう (Hamano 1996; 斎藤 1999)。これらの指標を超えることは、以下のような実際のテーマの面でもいえることである。つまり、結婚のタイミングと結婚するかどうかという問題と同じように重要なのは、結婚の「その後」である。結婚の後の離婚、そして再婚は、カトリック社会には扱われにくいテーマである。しかし徳川日本では、人口システムと直系家族システムを保持するためになくてはならない制度だったのである。データのサンプル数の制限があるため、これらは非常に扱いにくいテーマであるが、本プロジェクトではその研究への先べんをつけたといえよう。これまで、離婚・再婚が多いとされていた庶民の結婚パターンを、さらに詳細にわたって地域差やタイミングを明らかにしたのである (Kurosu 1998a; 斎藤・浜野 1999)。今後これらの研究は日本の家族システムと人口の関係を知る上でますます重要になると考えられる。

 

1.6.4 地域差にみる結婚パターン

 先行研究の蓄積から、日本の婚姻研究に関して少なくとも6つの点があげられる。() 結婚年齢にかなりの地域差があったこと、() 西ヨーロッパの歴史人口データに比べて早婚・皆婚傾向があること、() 「奉公」の経験を通して、結婚年齢と階層に負の関係があること、() 離婚や再婚が少なからずあったこと、そして() 幕末、特に養蚕業の発達した地域で女子の結婚年齢が上昇したこと、() 階層差と通行圏には正の関係があること。この中で、本プロジェクトで特に新しい知見を得るにあたった最初の4点を中心にその詳細を整理する。

 結婚年齢の地域差については、明治統計を使った県レベルでの研究で「地質学上のフォッサマグナ」(速水 1987)と同一と称されるほどに東日本側の早婚、西日本側の晩婚、という明らかな違いがされてきた。宗門改帳や人別改帳を使った村レベルのミクロ研究でも地域差は明らかであったが、必ずしもはっきりとこの2分類に分けられるかどうかは明らかにされていなかった。本プロジェクトでは前項で述べたような定義と方法で、特に良質で長期的に残存する史料を3地域、4カ村(二本松藩領の2農村、濃尾地方の農村、長崎の漁村)を中心に、地域性を考慮に入れた結婚パターンの解明が様々な分析方法を適用してなされた(Kurosu, Tsuya and Hamano, 1999)。これによって、前工業化期の結婚パターンには少なくとも東北日本、中央日本、そして西南日本という三つの地域性があることが明らかになってきた。どの地域をとっても50歳時点で結婚の記録がないという男女は、わずかの例外を除いてほとんどいないという「皆婚社会」であったことは共通している。また、女性の場合、特に、婚姻年齢がある一定の期間 (現代風にいえば「結婚適齢期」) に集中していたこともわかった。しかし、初婚年齢は3地域の中でかなり差があること明らかになった。東北農村が非常に早婚であり、中央農村、そしてさらにそれ以上に西南地域で比較的晩婚であったことがわかった。西南地域の漁村は、西ヨーロッパの婚姻年齢に匹敵するほど晩婚であった。さらに初婚について夫婦の年齢差をみてみるとどの地域でも夫の年齢が高いのが一般的であるが、東北でその年齢差は小さく、中央や西南では10歳の差はごく一般的にみられ、西ヨーロッパの研究と比較すると、かなり夫婦の年齢差が大きく、夫婦の勢力関係にも影響があるとみられる。

 中央農村を中心とした先行研究によると、初婚年齢は奉公の経験があるかないかによってかなりかわってくる。階層の低い農民はそれだけ奉公を経験する確率が高いので、奉公期間だけ結婚がおくれるということである。本プロジェクトの研究により、奉公経験の有無がかなり結婚のタイミングを決めることは再確認されたが、しかし、この関係は、その地域の環境・社会経済状況によってかなり違ったストーリーであることも判明した。同じ農村でも近隣に市場経済の発達した都市がある中央日本とは違い、東北農村は環境条件も厳しく、稲作の北限であったため、当時のテクノロジーではかなり気候変動の影響を受けていた。そのような地域で、結婚はある種の労働力確保のための「保険」として使われていたのである(Nagata 1998b)。つまり、まずは結婚したうえで、奉公や出稼ぎがおこるため、労働移動で出た世帯員のほとんどがいずれはその世帯にもどる。人口の減少や絶家の危機はこうして避けられていたのである。地域の厳しい環境・経済状況ゆえの生存戦略として早婚慣行が保たれていたといえよう。西南の漁村はこれとは全く違った状況である。環境条件のあまり厳しくない漁村であるがゆえに、結婚が保険として使われたり、世帯経済のための人数調整として使われる必要はなく、農村にみられる婚姻前後の奉公労働もみられない。そして、この地域は晩婚で、出生率は高く、婚前交渉についてもかなりリベラルであった。

 さらに結婚後の行動分析から、離婚・再婚にも地域性が明らかになった。これまで離婚・再婚の研究は国内外において初婚の研究ほどに取り上げられてこなかった。これには、西ヨーロッパのカトリック社会において離婚が許されていなかったことや、離婚・再婚を扱うに足るデータと処理方法がなかったことがあげられる。1990年以前の研究では史料の中で出産可能期間がすべて観察可能な、いわゆる「完全家族」に限られ、そのような史料で扱えないテーマは研究外だったといえよう(斎藤・浜野 1999)。離婚・再婚はまさにそのような対象外の問題のひとつであった。本プロジェクトでは1990年代の情報革命の恩恵を受けて、大量データのコンピュータ処理を可能としたのである。

 さて、そこで浮き彫りにされた地域性であるが、皆婚・早婚社会の東北農村では、結婚の終わりも早い。そしてそれは死別よりも離別が多いのである。離婚者の多くは、結婚後3〜6年という短い間に離婚している。しかし、また再婚も非常に多い。離死別に続いてやはり3〜6年という短期間に離死別者の多く(70%)が再婚するのである。つまり、結婚が長続きせず不安定ではあるが、結婚制度が非常に柔軟なため、ほとんどの成人が何かしらの形で夫婦関係を保つことができたのである。これに対して、晩婚の中央農村や西南の漁村は、結婚解消率は東北と比べて低く、その理由も死別によるものが大半を占めていた。中央農村では、再婚するケースは少なく、再婚までの時間 (年数)もかなりかかったが、西南漁村では再婚の可能性も東北ほどではないにしろ高く、再婚するスピードも速かった。結婚がかなり安定していたこれらの地域を鑑みれば、社会的にも経済的にも東北地方ほど結婚制度が柔軟である必要はなかったと思われる。

 さてこれまで地域差をベースにこれまでの研究成果を振り返ってきたが、史料整理が進んでいる東北の2農村については、さらに詳しい分析が進行中である。特にユーラシアプロジェクト国際比較研究と並行して、初婚の確率(未婚の男女が当該年から1年の間に結婚するか否か)と個人の属性(例えば地域の経済状況、世帯の経済的地位、きょうだい構成など)の関係をイベントヒストリー分析という多変量解析によって明らかにしていく作業である。これによって先に述べた、非常に短い「結婚適齢期」内での結婚にも多様性があることが明らかになってきた(Kurosu and Tsuya 2000)。例えば、地域、世帯、個人のレベルでの三つをあげてみる。まず、地域の経済状況であるが、米価の変動で示される経済的ストレスが高まると女性の結婚の可能性はその年から3年後まで大きな打撃をうける。男性は3年後にかなり大きな影響を受け、結婚の確率が低くなる。世帯の持高がその世帯の社会経済的地位を表わしているとすると、社会的地位の高い世帯ほど、嫁や婿を「引き入れる」可能性は大きい。つまり、地位の高い世帯にいるほど、嫁をとる立場の男性や、婿をとる立場の女性は結婚しやすくなる。また、個人きょうだい関係は、結婚の確率に大きな影響を与え、結婚は出生順位と深く関わっていることも明らかになった。これらの結果はこれまで一般的にその傾向が予測されてはいたものの、実際に数量的に実証できたのは本研究がはじめてだといえよう。同様の分析は離婚の確率、再婚の確率についても進行中である。

 

1.6.5 前近代期日本の人口システムと家族システムのかなめとしての結婚

 これらの成果が示唆するものは、日本の歴史人口学研究のみでなく、これまでヨーロッパ中心にかたられてきた結婚分析を再考させるものだといえよう。

 これまで、結婚パターンを論ずる場合にかならず引用されるのが、ジョン・ヘイナルの西ヨーロッパ (晩婚と生涯未婚率の高さが特徴) vs. 東ヨーロッパ型結婚パターン (早婚と生涯未婚率の低さが特徴) である。日本における歴史人口学の先行研究は、これらのパターンについて日本がどちらにあてはまるのか、どちらにもあてはまらないのかという議論が続いてきた。本プロジェクトの蓄積から出てきた結論は、このどちらにもあてはまらないというものである。その理由は前項で述べた通り、国内にも大きな地域性があること、また「近代以前」としてひとくくりにはできないほど、徳川後期でさえ労働パターンやそれによる初婚年齢の上昇があること、そして離婚・再婚という柔軟性があることである。コンピュータ革命の恩恵をうけて大量の長期データを処理してより正確かつ複雑な統計分析を可能にしただけではなく、本プロジェクトはこれまでヨーロッパ歴史人口学がうちたてたフレームワークの拘束を脱して、結婚分析のあらたな足がかりを提示したといえよう。従来の研究の最大の関心事であった初婚年齢・未婚率を超えて、結婚のタイミングに関する様々な属性から、個人の結婚の可能性を探ること、そして、結婚のみでなく、その後に起こる離死別や再婚までを考慮に入れた分析の必要性を明示したのである。

 さらに、「結婚」を単なる人口学的アプローチのみでなく、「直系家族」システムの中に位置付けることによって人口と家族システムのつながりを明らかにしていくアプローチを確立した(Ochiai 1998; Kurosu and Ochiai 1995; Kurosu 1998a)。「結婚」は、人口システムと家族システムのかなめであるということは、先に延べたジョン・ヘイナルのモデルの意味するところでもあるが、これまで、この問題を日本の状況に当てはめて研究されることは少なかった。直系家族において、「結婚」は、きょうだいのうちのひとりが嫁また婿をとり世帯の継承者となると同時に、それ以外の娘や息子たちは遅かれ早かれ世帯外に結婚して出て行くことを意味している。だれが残るか、だれが出るかによって、男女の結婚パターンの違いのなかに、居住形態による差違(いわゆる、嫁とり婚と婿取り婚)が隠されているのである。この違いは、初婚のみならず、その後の再婚の可能性にも大きく関わってくる。継承戦略を含めた直系家族システムならではの特質を無視して結婚パターンを語ることはできない。

 直系家族の特質や多様な形で存在する前近代の結婚パターンをヘイナルが明示していない「第3のパターン」として、斎藤(1999)を中心とした理論的再構築も進んでいる。このフレームワークは、現在進行中の東北史料を利用した詳細分析や、その他多くの地域の史料に適用することによって、今後、より明らかになってくることが期待される。初婚、離死別、再婚を含めたより総括的なアプローチや結婚と他の人口学的条件、社会経済的状況を含める多元的アプローチからより多くの地域と期間でテストされていかなくてはならない。ユーラシアプロジェクトで得られた知見と手法の適用によって、蓄積された史料はさらに詳細な前近代における結婚を語ってくれるだろう。


1.7 人口移動                川口                                      

1.7.1 はじめに

 17〜19世紀を対象とした人口研究は、人口現象の正確な復原を目的とした初期的段階を経て、生産、消費、流通、あるいは生活水準といった民衆生活の全貌を視野に納めて人口現象の理解を深める方法論を模索する段階へと展開を遂げようとしている。内外の研究者の念頭には、常に近代社会への移行過程が置かれていた。すなわち、2世紀半におよぶ「鎖国」の後、短時日のうちに産業化を遂げた日本における近代的経済成長の源流を江戸時代の社会構造に求め、西欧諸国と日本の移行過程を比較するという問題意識が確認できる。

 人口移動をめぐる移行過程は、「移動革命」あるいは「移動転換」という用語に要約される。すなわち、低移動率から高移動率への移行である。従来の研究では、他国他領への縁組、養子、奉公を制限した法令などにもとづいて、江戸時代における人口移動の閉鎖的性格が強調されてきた。たとえば、通婚圏に関する通説的見解は、@村内婚の傾向が濃厚である、A自村から20km以内の近隣地域でほぼ完結している、B近隣地域内部でも政治的境域の制約を強力に受けていた、C明治時代以降、通婚圏は拡大した、D近隣集落との緊密な通婚関係を拡大した主体は上層農民であるといった点に要約できる。

 1970年代から本格化した歴史人口学は、上記の「土地に緊縛された農民」という通説的見解を覆し、伝統社会における民衆像に再検討を迫った。美濃国安八郡西条村を事例とした人口移動に関する論文(速水 1972)は日本における歴史人口学研究を世界に示す成果となった。

 大都市村落間の事例に加え、本プロジェクトでは、従来検討されることの少なかった中小都市をめぐる人口移動や村落間の遠距離移動の復原を通じて、17〜19世紀の日本における民衆生活の具体像を再検討するとともに、日本との比較を念頭において、ドイツとイスラム世界の人口移動についても一次史料に基づいて考察した。

 

1.7.2 史料

 江戸時代における人口移動を復原する基本史料となっていたのは、「宗門改帳」と総称される古文書史料であった。しかし、本プロジェクト発足以前に発見された人口移動が記録されている「宗門改帳」は地域的に限定されていた。そのため、人口移動は伝統社会における人口研究のなかでも蓄積の薄い分野であった。また、多様な時間周期で発生する人口移動のなかで、「宗門改帳」から復原できる現象は、婚姻、養子、引越、奉公などを契機とする場合に限定され、移動の発生した具体的状況を知ることも困難であった。

 本プロジェクトでは、三都、中小都市、および西南・中央・東北日本の村落における良質の「宗門改帳」を蓄積するとともに、「宗門改帳」から復原することの困難な日常的人口移動、移動が発生した具体的状況を語る史料の収集に努めた。また、ドイツ、イスラム世界では、住民簿、教区簿冊、住民台帳、租税台帳などを収集した。収集史料の一部はデータベースに登録され、研究者間で共有できる研究環境が整備された。発見された史料は、人口移動をめぐる民衆生活の具体像を鮮明に描き、通説に再検討を迫る証左となった。

 

1.7.3 都市をめぐる人口移動

1.7.3.1 都市墓場(蟻地獄)説     

 都市をめぐる人口移動に関する本プロジェクト発足までの研究成果は、速水(1992)によってまとめられている。著書のなかで、都市村落間の出生率・死亡率の格差にもとづく村落から都市への恒常的な地理的労働移動、奉公経験の有無による村落内部における人口再生産構造の格差と階層間移動を結合させた「都市墓場(蟻地獄)説」が改めて提示された。この仮説は、伝統社会における都市村落間の人口移動をとらえる研究指針として国際的な評価を受け続けている。

 

1.7.3.2 中小都市における人口移動      

  中小都市の人口現象は、研究の蓄積がとくに少なかった分野である。しかし、「都市墓場(蟻地獄)説」や近代移行期における「城下町の衰退と在郷町の成長」といった仮説を検証するためにも、中小都市における人口移動の実態把握は必要不可欠な課題であった。

 本プロジェクトでは、高橋(1999a)が陸奥国安積郡郡山を研究対象地域として上記の課題に取り組んだ。二本松藩の総人口が減少しているにもかかわらず、宿場町郡山の人口は18世紀以降増加を続けた。人口増加に寄与したのは、自然増加よりも社会増加であった。とくに越後国蒲原郡からの流入は、18世紀末以降、郡山の近隣村落からの流入を上回った。流入の契機は奉公、引越、厄介、婚姻などであり、近隣村落からは主として男性が、越後国からは女性が奉公に来た。ただし粗出生率、粗死亡率は、近隣村落と格差はなかった。

 さらに松浦(近刊b)は、人口約1100人の小城下町三河国刈谷の『刈谷町庄屋留帳』(1717〜1872)を史料として、「宗門改帳」から復原することのできない短期的な人口移動について検討した。移動の契機は、婚姻、養子、相続、引越、奉公のほかに、出人の4割を占める酒造稼ぎ、湯治、用事、相談、参詣、旧離・出奔・欠落といった家出、帰村、病気見舞い、介抱など多岐にわたり、季節性が明瞭な移動もみられた。移動先は三河国以外に、江戸、京都、大坂、名古屋といった大都市、秋葉山、吉野大峰山、金比羅山、高野山、富士山、永平寺、本願寺、鳳来山、善光寺などの社寺、遠江、駿河、尾張、志摩、伊勢、伊豆、美作、信濃まで広域に及んでいた。

  新たに分析のメスが入った2つの事例によって、中小都市を構成していた民衆の生活交渉空間が予想以上に広域に及んでいたことが確実となった。さらに、人口移動のメカニズムが労働力の市場経済化によって説明できる可能性が開けた。中小都市における「都市墓場(蟻地獄)説」、「城下町の衰退と在郷町の成長」といった仮説の判定とともに、人口移動のメカニズムに関する新たな説明理論の提案が期待される。

 

1.7.3.3 都市居住者の流動性      

  都市に住む借家人の転入・転出については、浜野(1988)が京都南郊の洛外町続集落の一つである西九条境内志水町を事例として、「宗門改帳」と「借家引取証文帳」を組み合わせ、戸主のライフサイクルとの関連において借家人の流動性を検討した。江戸時代後期の86年間に記録された延べ195世帯の中で、観察期間中この町に住み続けていたのは1軒にすぎず、借家世帯の4割は1年以内に転出しており、平均居住期間は約3年であった。戸主が30歳代前半までの世帯の居住年数は短いが、それ以上の年齢階層では居住年数が長期化して、50歳代からは移動するものと定着するものに分かれる。三条衣之棚町、四条立売中之町といった大商人や文化人が住む都市中心部の事例に、日雇や行商など雑業層が住む西九条境内志水町を加えたことにより、流動性の高さは、京都に住む江戸時代後期の借家人に共通の特色であったことが証明された。

 

1.7.3.4 都市をめぐる生活交渉空間      

 「宗門改帳」から復原が困難であった日常的な人口移動については、溝口(1998b、1999b)が、GISを用いて『寛文村々覚書』(1672)と『尾張洵行記』(1822)を分析することにより、城下町名古屋と周辺地域の地域構造を解明した。得られた知見は多岐にわたるが、日常生活物資の流通、宿場と助郷村々、あるいは寺院の本末関係などは、都市をめぐる民衆の生活交渉空間を示している。とくに、燃料である薪や松葉が熊野地方から名古屋に移入されていた点、熱田の魚市に輸送された近海魚のなかには、知多半島東海岸から毎日約7里の行程を徒歩で運搬されたものもあった点、名古屋への食糧供給を担っていた下小田井の青物市を中心として、葉物→根物→豆・ごま・茶という生産地の圏構造が観察され、生産地の地域分化が進んでいた点などは、巨大都市の存立基盤を考察するうえでも興味深い。

 

1.7.4 村落間の遠距離人口移動

 村落間の遠距離人口移動については、近年まで事実関係さえ指摘されることが稀であった。川口(Kawaguchi1995、1996、1997a)は、隔絶山村の代表的な事例として、閉鎖性、孤立性が強調されてきた陸奥国会津郡、大沼郡、および下野国塩谷郡の一部を含む南山御蔵入領における遠方婚、移住政策について検討した。幸い、人口移動の詳細な検討を通じて持続的人口成長開始期の社会経済的状況を解明した点を評価され、フランスの学会誌に掲載された。

  南山御蔵入領全域におよぶ村落では、越後国蒲原郡を中心として東日本のほぼ全域からの主として女性を配偶者として受け入れていた。遠隔地からの入婚者は、18世紀中期から現れるが、持続的人口成長が開始した1840年代以降、急増したとみられる。福島県中通地方の村落でも、主として越後国蒲原郡出身の女性転入者が1840年代以降急増した。商人や「他邦者引入人」などが、遠方婚や移住を仲介した事例もみられた。とくに「他邦者引入人」による越後国からの移住者引き入れ計画の立案者、立案過程、移住者の募集方法については詳細に解明され、この計画が天明飢饉によって減少した人口の回復を意図した領主側の社会保障政策の一環であったという通説が再検討された。

 南山御蔵入領や中通り地方への指向性の強い女性の遠距離移動の背景には、生産活動の活性化に裏付けられた末端消費の充実、これにともなう地域間交渉の活性化といった社会経済的状況がみられた。南山御蔵入領では、19世紀初頭から大麻の栽培、麻織物の織り立てを中心とした女性が重要な役割を担う生産活動が急速に活性化した。結婚祝い金の高騰は、女性労働需要が急増したことを示唆している。これと並行して、日常生活物資を移入して特産物を移出する商人が、村ごとに店舗を構えるようになり、他領との移出入金額も増大した。さらに、民家や信仰施設の建設が盛んとなり、他国入り稼ぎ人も増加した。村芝居が活況を呈し、歌舞伎衣装が京都に発注され始めたのもこの時期のことであった。

 生産活動の活性化にともない急激に高まった労働需要に対応して、遠隔地出身の入婚者の増加を含む人口構造の変化により持続的人口成長が開始したとの論点は、先に述べた郡山周辺地域を含む関東以北の養蚕、綿作、織物業地域に共通する視点となる可能性がある。

 

1.7.5 ドイツにおける人口移動

  ヨーロッパ社会については、国外研究者が担当したイタリア、ベルギー、スウェーデン、フランスの事例とともに、ライン川下流に位置するヴッパー・タール地方の改革派が卓越した「商人企業型」のエルバーフェルトとルター派が卓越した「生産者企業型」のバルメンにおける人口現象が、村山(1995a、1996b)によって解明された。ヴッパー・タールでは18世紀後半から約1世紀の間に人口が急増し、両地域ともに改革派、ルター派、カトリックの三者が混在する多信条社会へと変化した。すなわち、需要の増大により、旧来からの撚糸漂白業者に加えてエルバーフェルトでは麻織り工が、バルメンではリボン編み工が急増し、亜麻布とリボンという最終加工品を域外市場に移出する改革派の商人層が形成された。ルター派とカトリックの新住民は、労働需要の急増にともなって域外から流入し、賃労働者層を形成した。このような市場経済化を視野に入れた人口移動のメカニズムは、近代移行期の日本の事例と比較する尺度を提案するうえで貴重である。

 

1.7.6 イスラム世界における人口移動

1.7.6.1メッカ巡礼   

 東はインドネシア、西はセネガル、南はタンザニア、北はユーゴスラビアにおよぶ地域から毎年ズルヒッジャ月に行われるメッカ巡礼は、イスラム世界を特色づける1年周期の遠距離人口移動である。メッカ巡礼について検討した坂本(1999a、1999b)の論点は多岐にわたる。とくに、18世紀中期におけるワッハーブ派とネオ・スーフィズムの宗教改革運動が巡礼を通じて世界各地に伝えられ、地域社会における改革運動の起爆剤となったことが、メッカの地位をイスラム世界における情報ネットワークの中心地に押し上げたとの指摘は興味深い。明治末に日本から初めてメッカ巡礼を行った山岡光太郎とアブデュルレシト・イブラヒムの大アジア主義とパン・イスラミズムが、日露戦争後の対外拡張主義の中で大東亜共栄圏構想における対タタール人政策として結実する過程も、メッカ巡礼の政治的影響力という枠組みで捉えることのできる秘史である。

 

1.7.6.2 都市と交易ネットワーク      

  坂本(1997、1998a、1999c、1999d、1999e)は、イスラム世界の経済構造の特色を都市を核として農村、遊牧社会が結合した局地的交易市場圏の集合体と捉え、各中核都市に拠点を置く遠隔地商人が国家の枠組みを越えた広域的交易市場圏を形成していると指摘した。局地的交易市場圏については、19世紀のイスファハーンにおけるバザールの構造を取り上げ、バフティヤーリー遊牧民のイスファハーン移住と商品流通に果たした役割を解明した。広域的市場圏については、16世紀以降、遠隔地商人の中核となったアルメニア人、ギリシャ人などの非ムスリム商人の動向を追跡した。アルメニア人商人はイランからザカフカス、アナトリア、バルカンに至る陸上キャラバンルート上の中継都市に、海上交易にたけたギリシャ商人は黒海沿岸の港町にそれぞれ移住してコミュニティーを形成した。19世紀末のイスタンブルでは、総人口の約2割がアルメニア系住民、約2割がギリシャ系住民であった。ヨーロッパ商業資本に対しても、広域的交易ネットワークは柔軟に対応して、第1次世界大戦まで組織力を維持していた。

 坂本の研究は、多民族、多言語、多宗教で構成されるイスラム世界におけるダイナミックな人口移動を日本やドイツと同じ尺度で理解することが困難であることを示している。

 

1.7.7 おわりに

  本プロジェクトで得られた研究成果により、江戸時代における「土地に緊縛された農民」という観念的な民衆像を打ち砕くことにはひとまず成功した。恒常的な遠距離人口移動は、大都市だけではなく中小都市や閉鎖性が強調されてきた山間集落においても確認された。伝統社会における民衆の生活交渉空間は、予想以上に広範におよんでいたのである。「移動革命」という文脈で近代移行期における人口移動の変化を述べる意味自体が問われる段階に入ったといってもよかろう。

 17〜19世紀を対象とした人口移動の研究は、過去の人口現象を分析する段階から、民衆生活の全貌を視野に入れて人口現象の理解を深める段階へ展開を遂げようとしている。人口移動を地域特性としてとらえ、日常生活を構成する多様な要素との関連の中で解釈することによって地域変化の構造を解明し、近代移行期の民衆生活を総合的に叙述する研究方法の模索も始まった。「土地に緊縛された農民」に代わる新たな民衆像提案に向けての萌芽もみられた。たとえば、生産・消費行動によって加速された労働需要と人口移動との関連は、持続的人口成長開始期の社会経済的状況をとらえる視座となる可能性がある。

 本プロジェクトでは、邦人の共同研究者がドイツやトルコを含むイスラム世界の一次史料を直接現地で収集し、地元研究者と討論することができた。とくにトルコについては先行研究も多いとはいえず、本プロジェクトが同地における人口研究の開拓を促すこととなった。地域単位に復原された人口現象のユーラシア社会における位置づけ、あるいは比較尺度の提案は、今後に残された最重要課題である。

 なお、本稿では筆者自身の問題関心から、人口の空間的移動とそのメカニズムに力点を置いてプロジェクトの研究成果をまとめた。そのため、家族の継承戦略という観点から離家パターンを検討した黒須(Kurosu1996a,1996c)、労働移動を論じたNagata(1998b、1999c)、再婚について検討した斎藤・浜野(1999)、および社会階層間の移動を論じた米村千代(1996b、1998)などの労作を整理できなかった。また、プロジェクトのセミナーで口頭報告された木下、溝口、坂本論文などの紹介も割愛せざるを得なかった。筆者の力量不足をおわびしたい。

 


1.8  都市人口              浜野

1.8.1 都市人口研究の制約

 中世以前の日本では、都市といえば京都・奈良・鎌倉のほか、若干の門前町と港町があるにすぎなかった。ところが、近世初期に平野部に城が築かれ城下町の建設が始まると、世界史上にも例をみない都市の建設ラッシュの時代がやってくる。その数は織豊期だけで60余り、徳川期に入って建設されたものは、それこそ大名の数だけあるということから、数百におよぶと思われる。速水融は、明治初年に人口5000人以上の行政単位に住む者を都市人口と定義しているが、その率は全人口の13.4%である。工業化以前の数値としては、かなり高い数字であるといえよう。

 しかしながら、近世の歴史人口学における都市の研究は、これまであまり大きく取り上げられてこなかった。その第1の理由は、都市は火事などの災害を受けることが多く、農村に比べて史料の残存する例がかなり低いためである。顕著な例は、近世最大の都市である江戸であろう。江戸は、近世における火事・地震、そして近代以降においても地震と戦災により文書史料のほとんどが灰燼に帰してしまった。今日、残存する人口史料は、ほぼすべて幕末の単年度のものであり、すべて合わせても10点にも満たない。このように、史料の利用可能性という意味で、都市人口の場合大きな制約が存在するのである。

 これと矛盾するようだが第2の理由は、幸運にも史料が利用可能な場合、分量が非常に多くなり手計算での集計が困難だということである。都市人口の史料は数が少ないものの、良好な史料が皆無というわけではない。たとえば、城下町としては飛騨高山、宿場町としては奥州郡山などが代表的である。歴史人口学においては、規模の小さな農村の場合でも膨大な整理・集計作業を必要としており、まして都市になると、機械の力を借りることなく分析することはほぼ不可能に近い。その中にあって、佐々木陽一郎による飛騨高山の歴史人口学研究は、まだ進行中であるが、近世史研究にコンピュータを利用したパイオニア的研究として評価すべきといえる。

 第3の理由は、都市の史料(とくに幕府直轄の都市)には年齢記載を欠くものが少なからずあるという問題である。たとえば、大坂では菊屋町など長期にわたる史料の存在が知られているが、残念ながら年齢の記載を欠いている。年齢こそ、人口学においてもっとも重要な指標であり、これを欠く場合、あらゆる分析において重大な制約を受けることになる。

 以上3つの理由から、近世の都市人口研究はこれまで相対的に遅れた状態にあった。今回のプロジェクトにおいて、都市人口研究だけを目的とする班、またはグループを作ることはなかったが、個々の研究者レベルでは、都市人口史料に取り組んだ研究がいくつかある。ここでは、すでの述べた都市人口研究の3つの制約をのりこえるため、今回の共同研究がどのような努力をし、いかなる成果を得たかという点を中心に述べることとする。

 

1.8.2 史料の発掘

 今回のプロジェクトでは、既知の史料の分析と並んで新たな史料の収集とデータ処理が重要な課題となった。都市人口史料の発見や史料解読の事例として数は少ないが、重要なものがいくつか含まれている。

 まず、大坂では既に存在が知られていた道修町の宗門改帳の写真撮影が行われ、現在、解読が進んでいる。菊屋町の史料と同様、年齢の記載を欠くものの、都市人口史料としては第一級のものである。

 また、京都においては、京都市史編纂過程で収集された文書史料が公開されるようになったため、大量の宗門改帳・および戸籍史料が確認されている。これらの史料は、京都市歴史資料館でマイクロフィルムから焼付・製本されたものを利用することができるので、非常に便利である。また、従来の調査では宗門改帳および、それに直接関係ある史料のみ撮影を行い利用してきた。しかし京都市の場合、調査対象となった史料はすべて撮影し、焼付・製本したものを公開しているので(林屋辰三郎氏の方針と聞く)、文書の全体像が現地へ行かずとも判明するという大きなメリットがある。

 京都市歴史史料館所蔵史料による最初の研究は、志水町(下京区)の宗門改帳を利用した浜野(1998)の分析である。すでに京都の町に関しては、三条衣之棚町の史料を用いた秋山國三・仲村研の研究、四条立売中之町ほか四条界隈のいくつかの町の史料を用いた速水融の研究があり、これらの研究では一貫して京都における住民の移動率がきわめて高かったことが明らかにされてきた。浜野の報告は、80年以上にわたる連続した宗門改帳という特性を生かし、住民の移動について同様の分析を行ったものである。その結果、「宗門改帳に記載されている世帯の約1割が毎年移動するという状況は、京都のことなる三つの町で共通する」という観察結果を得た。

 さらに浜野は、「借屋引取証文帳」という史料に着目した。この史料は、京都で新たに借屋に入るものに必ず作成が義務づけられたものであり、ごく普通に見られる史料である。しかし、この史料を宗門改帳と重ね合わせると、宗門改帳に記載されなかった、ごく短期の居住者の存在が浮かび上がってくる。その結果、借屋世帯は、その約4割が1年以内に転出しているという、実態が明らかになった。また、このような頻繁な移動は、戸主のライフサイクルとも密接なかかわりがあり、特に移動が激しいのは、若者か、あるいは高齢者の一部であることが判明した。

 京都の宗門改帳は、志水町以外にもかなりの数が確認されている。筋違橋町の史料は、幕末の21年間に11年分の史料が残されているが、すでに解読が終了し永田メアリーによって報告された(Nagata 1999b)。永田は近世の商家において直系家族システムをうまく利用する「戦略」、――結婚・養子縁組・離婚・勘当・隠居などを組み合わせる――があったとの仮説を用いて、宗門改帳を分析した。

 京都では、これ以外の町でも史料解読が進行しており、また、新たな史料撮影の計画もある。また、連年にわたり続く史料以外にも、単年度の史料を横に広げて収集するということも必要である。その場合、天保14年以降の年齢が記載されているものに限って、分析をすることが考えられるであろう。

 さらに新たな発見ではないが、長崎桶屋町の宗門改帳が友部謙一により解読され、そのシートが徳山大学総合研究所において公開されたことは、都市人口史における大きな貢献であろう。友部は、この史料を用いた分析を最近公表した(友部 1999)。桶屋町の史料は、18世紀半ばから19世紀半ばまで110年間をカバーし、欠年がわずか4年しかない。また、人口規模も1772年では481人と、まずまずのサイズであり、都市人口史料としては第一級のものである。

 桶屋町の人口については、まだそのごく一部の内容が公表されたに過ぎないが、非常に注目される知見が得られている。この町の人口は、幕末にかけて少しずつ減少していたが、その要因は、自然増加がマイナス、つまり死亡率が出生率をうわまわるためではなく、移出が移入をうわまわるためであった。友部は、桶屋町以外の都市人口も参照した上で、都市は死亡率が高く農村から人口をつねに引きつけていたという「都市墓場説」あるいは「都市蟻地獄説」を日本の徳川期に当てはめることに疑問を呈し、「都市の出生率がかならずしも農村のそれより低くない」と指摘している。また、最高死亡率(死亡率のピーク)では、いずれの事例も都市が農村をうわまわっているが、最低死亡率(友部は、これを「平時」死亡率とみる)には大きな違いがない。したがって、都市を「高い死亡率・低い出生率」という図式で括ることはできないとした。友部が観察した数値は、普通出生率・普通死亡率であり、観察対象の町村における人口構造に差がないことが前提であろう。したがって、まだ第一次接近といえるが、今後より洗練された人口指標の観察を通して問題の解明が進むことを期待したい。

 

1.8.3 コンピュータの利用

 都市の宗門改帳といっても、すべての史料が大量の人口をカバーしているわけではない。京都では、ひとつの町の規模は平均すると200人弱である(元禄3年の数字、洛外町続町を含む)。したがって、平均的な村よりもむしろ小さな人口を扱うことになる。

 一方、一つの都市人口においてかなりの部分がひとつ、または複数の史料でカバーされる例も、まれに存在する。飛騨高山は一つの例であり、佐々木陽一郎による研究が進められていることをすでに触れた。もう一つの事例は、今回のプロジェクトにおいてコンピュータを利用した本格的な分析が初めて行われた奥州郡山である。もともとは、村扱いの宿場であったが、近世における人口増加はめざましく、幕末には5000人をうわまわった。郡山は、上町と下町に分かれており、ほぼ同じ規模の町である。したがって、1冊の宗門改帳に最大2500人前後が記載されていることになる。このサイズになると、データシートの検索・集計を手作業で行うのは困難である。郡山のデータついては、コーディング、入力が10年以上前に当時、事務処理計算で一般に使われたオフコンを用いて行われた。しかし、そのデータを利用するソフトウェアの開発は、ごく初歩的なものにとどまっており、本格的研究は手つかずだった。

 オフコン処理の時代から本プロジェクトが始まるまでの間にコンピュータは、専門技術者のものから、一般のユーザーのものへと変わった。データがデジタルの形で利用可能なら、それを簡単な形で利用するためのソフトウェアが安価なPC上で使えるようになったことが大きい。このためのデータベース再構築と、プログラム開発は小野芳彦が担当し、データの分析は、高橋美由紀により行われた。現在、データベースが完成し、利用可能となっているのは郡山上町のみであるが、郡山下町に関してもデータベース化の作業が進行中である。

 郡山上町の分析結果は、一部すでに報告されている(高橋 1999a)。高橋は、観察期間に3倍にまでなった人口増加の内容について、まず明らかにした。予想されるように、このような高い人口増加は人口の純流入による社会増加によって実現した。郡山上町への流入は、近隣の農村がまず多く、ついで周辺地域である安積郡・安達郡となる。また、遠方にもかかわらず越後国から相当数が入っている。この流入人口は、若年の女子に偏っており、いわゆる「飯盛女」であろうと推測する。また、人口増加への貢献という点では、ウェイトは低いが最初の時期を除き自然増加率は、つねにプラスの値を示しており、また後半には出生率の上昇が観察された。つまり、郡山は都市といっても人口維持能力を持っていたということが明らかにされたのである。

 

1.8.4 年齢未記載の問題

 都市の宗門改帳には、年齢の記載を欠くものが多数見られることは、すでに述べた。京都では天保13(1842)年以前の宗門改帳には年齢記載がない。したがって、長期にわたる史料が利用可能であっても、標準的な人口分析の適用には著しい制約がある。浜野(1998)は京都の約80年間にわたる宗門改帳を利用したが、一部の分析については年齢記載のある天保14年以降についてしかできないため、サンプルサイズが十分に得られないという問題が生じた。

 また、大坂の宗門改帳は幕末に至っても年齢記載が行われることはなかったので人口史料としては京都以上に利用が難しい。いくつかの町に関しては、史料が長期にわたって残されており、特に菊屋町の史料はすべて印刷刊行されて利用の便が図られながら、これまで本格的な人口学的研究はほとんど行われなかった。年齢データは、人口学にとってそれほど不可欠なのである。

 速水(1998)は、大坂の宗門改帳は年齢記載を欠くものの、「家持・借家人の別無く、当主が毎月毎月、人別改帳面への判形捺印を義務として課せられてきた」ことに注目した。つまり、宗門改帳に登録された者が、何らかの理由で異動した場合、判形の数を数えれば、それが何月の時点であったか判明する。また、途中でこの町に入ってきた者についても、判形の始まる位置によって、それが何月であったか知ることができる。  

 速水は、大坂の宗門改帳のこの特性を利用して、乳幼児死亡率の測定を試みた。出生として登場したものについて、この「判形」の数を数えれば、月単位の生存率を計算することができる。ただし、この場合も宗門改からつぎの宗門改までの間に生まれて、かつ死亡した者は登録されなかった。少なくとも、一回は9月末日の宗門改を越えた者のみが観察対象となる。したがって、計算は生まれ月ごとに月別死亡率を積み上げる方法によって行なわれた。速水によれば、菊屋町の乳児死亡率は253.7から271.2パーミルの間と推計されるという。この数字は、徳川期農村について知られているレベルよりかなり高いことは注目に値する。

 

1.8.5 まとめ

 本プロジェクトは、決して都市人口にねらいを定めたものではなかった。むしろ、力点はより良質な史料がすでに利用可能であるいくつかの農村地域に置かれていたといってよい。しかし、都市に関する成果が乏しかったわけではない。都市人口を対象として発表された論文の数は必ずしも多くはなかったが、これまでの都市歴史人口研究の問題点、すなわち@史料の発掘、Aコンピュータ利用、B年齢の未記載に関して取り組み、一定の成果をあげたことをすでに指摘した。

 ところで各論文のテーマには、かなりばらつきがあるとはいえ、背後には共通するテーマがあると考えられる。それは、都市と農村の関係であり、また、都市が人口学的に「墓場」ないし「蟻地獄」としての効果を持っていたかどうか、という点であろう。この点について、まだ統一的な見解は得られていない。大坂では、農村に比べて乳児死亡率が高い点が速水により観察された。しかし、成人死亡率の測定は今後の課題となっている。また、長崎や奥州郡山では比較的出生率が高かったことが報告されている。

 近世都市といっても、決して一様とはいえないことはいうまでもない。また、同じ都市内部でもさまざまな地域が混在していたであろう。近世の都市歴史人口研究は、このプロジェクトによって確実に進展したと考えられるが、なお多くの未解決の問題を残す「フロンティア」であるといえよう。