長島隆二著作・演説目録


ここでは長島隆二の著作・演説を紹介します。なおこれは未定稿ですので
ほかにありましたらお知らせください


長島隆二著作・演説目録(〔  〕内は議会演説)
「制度整理」『立憲同志会叢書第一』1913年6月
「政局の真相」『立憲同志会叢書第二』1913年7月
「危機に切迫せる今春の財界」『大正公論』4巻1号、1914年1月
「百年の説法屁一つ」『大正公論』4巻2号、1914年2月
「長島隆二君の予算談」『東京経済雑誌』1734号、1914年1月
「桂内閣成立事情」『太陽』20巻8号、1914年6月
「立候補宣言」『埼玉日日新聞』1914年11月7日(埼玉県『新編埼
    玉県史資料編19近代現代1政治行政1』1983年)
「演説筆記」(国民外交同盟会『対支問題意見交換会演説筆記』19
    14年12月)
「徹頭徹尾誤解せられたる人秋山君」『中央公論』30巻5号、1915
    年5月
「旧勢力打破の大波動」『太陽』21巻5号、1915年5月
「現内閣の心事陋劣」『第三帝国』41号、1915年5月25日
〔外交に関する質問演説〕第36議会、1915年5月22日
〔予備金支出の件に関する質問演説〕第36議会、1915年5月28日
「戦後の東洋政局」『第三帝国』46号、1915年7月15日
「対支問題の真意義」『国家及国家学』3巻7号、1915年7月
(※末尾の補遺ア参照)
「帝国政界の将来」『中央公論』30巻8号、1915年8月
「世界の大転期に際して予の経綸を天下に披瀝す」『第三帝国』51
    号、1915年9月11日
「公孫樹下の叫び」『第三帝国』52号、1915年9月21日
「欧州大戦と我国の財界」『国家及国家学』3巻9号・10号、1915年
    9月・10月
「不平児長島隆二君の独演説を聴く」『雄弁』6巻10号、1915年10月
〔外交政策に関する質問演説〕第37議会、1915年12月8日・9日
〔予算案に関する質問演説〕第37議会、1915年12月25日
〔臨時軍事費及予算及追加予算案に関する質問演説〕第37議会、19
    15年12月27日
「此の外交を見よ」『洪水以後』1号、1916年1月1日
「露独必ず提携せん」『日本及日本人』671号、1916年1月
「明治大正政変秘史」『洪水以後』8〜14号、1916年3月1日〜6月5日
(※末尾の補遺イ参照)
「日露新協約論(日独同盟の前提)」『洪水以後』11号、1916年4
    月21日
「西園寺内閣論(違勅問題が困難)」『洪水以後』13号、1916年5
    月21日
(※末尾の補遺A参照)
「余の提唱する亜細亜モンロー主義」『東方時論』1巻4号、1916年
    12月
(※末尾の補遺BCD参照)
「経済政策の転換期迫る」『東方時論』2巻12号、1917年12月
(※末尾の補遺EF参照)
「軍国経済論」『東方時論』3巻4号、1918年4月
(※末尾の補遺GH参照)
「本野前外相の外交」『太陽』24巻7号、1918年6月
「憂ふべき出兵問題の前途」『大観』1巻4号、1918年8月
「田中君の陸軍」『青年』6巻8号、1918年8月
(※末尾の補遺IJ参照)
『西伯利亜出兵并に対支政策を論じて国民精神の改造に及ぶ』1918
    年9月、やまと新聞社
「先づ速に支那問題を解決せよ」『亜細亜時論』2巻9号、1918年9月
(※末尾の補遺KL参照)
(※末尾の補遺ウ参照)
「日本の講和外交」『太陽』25巻10号、1919年8月
「世界は遂に現実を去る能はず」『東方時論』4巻8号、1919年8月
「戦後の世界経済界の変革」『大観』2巻8号、1919年8月
(※末尾の補遺エ参照)
「近時米国の対日態度」『太陽』25巻11号、1919年9月
(※末尾の補遺オ参照)
〔外交問題調査特別委員会設置決議案に関する演説〕第42議会、19
    20年1月29日
(※末尾の補遺キ参照)
(※末尾の補遺MN参照)
『外を観よ内を観よ』1920年3月、関東印刷
「世界的暴風の襲来に面する日本」『太陽』26巻8号、1920年7月
「旧勢力の廃墟に立ちて」『東方時論』5巻8号、1920年8月
「財界の前途は絶対悲観也」『東京経済雑誌』2066号、1920年8月
(※末尾の補遺ク・カ参照)
「激流に棹す第四十四議会」『東方時論』6巻2号、1921年2月
「世界的平和と日本の使命」『外交時報』393号、1921年3月15日
(※末尾の補遺ケ参照)
「非常識は青年か老人か」『雄弁』12巻7号、1921年7月
『大国難に面して』1921年4月、人文書院
「同光会創立大会に於ける演説」『亜細亜時論』5巻3号、1921年4月
「難破せる研究会」『太陽』27巻4号、1921年4月
(※末尾の補遺OP参照)
「原氏の死が内政外交に及ぼす影響如何」『大観』4巻12号、1921
    年12月
(※末尾の補遺コ・サ・シ参照)
「議会に映る時代相の投影」『東方時論』7巻3号、1922年3月
(※末尾の補遺ス・セ参照)
(※末尾の補遺QR参照)
『政界革新の説』1927年2月、長島隆二後援会
〔経済匡救に関する決議案に関する演説〕第55議会、1928年5月5日・
    6日
『政界秘話』1928年10月、平凡社
(※末尾の補遺ソ参照)
(※末尾の補遺S参照)
『陰謀は輝く』1929年9月、平凡社
「金輸出解禁問題を中心として」『政友』臨時増刊号、1929年11月
    10日
〔予算案に関する質問演説〕第62議会、1932年6月9日
「七年度予算追加案論」『政友』382号、1932年7月1日
「日支民族同盟の機」『東邦時論』9巻7号、1932年7月
「光栄ある孤立を死守せよ」『東邦時論』10巻2号、1933年2月
〔予算案に関する質問演説〕第64議会、1933年2月14日
「国防費と国際関係」『政友』391号、1933年3月1日
「世界経済会議に関する諸問題」『政友』395号、1933年7月1日
「所謂『非常時』の実体」『政友』400号、1933年12月1日
『国策直言』1934年12月、立命館出版部
『独房に正座して』1937年8月、共盟閣
『支那事変と世界戦争の危機』1937年10月、共盟閣
『日英戦争』1937年12月、長谷川書店
「支那の開発は第三国に依存するな」『月刊亜細亜』1939年9月(桜
    田倶楽部編『秋山定輔伝』第3巻、1982年)


(※補遺)
以下の情報を茅原健氏よりいただきました。ありがとうございます。
A「西園寺内閣論に就て」『日本評論』(第15号 1916.7.1)
   (雑誌『日本評論』については、復刻版(不二出版)解説(茅原健)参照)
O「財政改造論」『内観』(第14号 1921.5.1)
P「茅原君に答ふ」『内観』(第17号 1921.8.1)
Q「経済界の断末魔」『内観』(第28号 1922.7.1)
R「前途暗澹」『内観』(第34号 1922.12.1)
   (雑誌『内観』については、茅原健著『茅原華山と同時代人』(不二出版)、
    『華山追尋ー茅原廉太郎とその周辺』(朝日書林)参照)
    (なお、『内観』については、昭和年代は、未調査)
S「人生の真の姿」『新気運』(第1号 1929.7.1)
   (雑誌『新気運』については、前掲書『華山追尋』を参照)


以下の情報を松本洋幸氏よりいただきました。ありがとうございます。
B「予の観たる三党首」『新時代』1巻1号、1917年10月
C「寺内内閣の俊才鈍才」『新時代』1巻2号、1917年11月
D「明年度の財界の予測・陰鬱に明けて希望に暮れむ」『新時代』1巻3号、1917年12月
E「現代世界の大雄弁家」『新時代』2巻1号、1918年1月
FGH「現代の五大注意人物」『新時代』2巻4号・2巻5号・2巻6号、1918年4月・5月・6月
I「政界の大潜勢力研究会論」『新時代』2巻8号、1918年8月
J「薩閥の人々」『新時代』2巻9号、1918年9月
K「政局大観」『新時代』3巻1号、1919年1月
L「此の一事を念頭に」『新時代』3巻3号、1919年3月
M「物価問題の前途」『東京経済雑誌』2045号、1920年2月28日
N「経済界の前途に就いて」『新時代』4巻3号、1920年3月


以下の情報を松田義男氏よりいただきました。ありがとうございます。
ア「政界の前途」『大正之日本』3-8、1915年8月1日
イ「欧州戦後の将来」『大正之日本』4-4、1916年4月1日
ウ「欧州前途と日本の地位 長島隆二氏帰朝談」『国民新聞』1919年7月1日
エ「背景なき使節の外交[講和使節を迎う 新帰朝永井・長島・中野氏の講
 和会議見聞記]」『寸鉄』1-9、1919年9月1日
オ「議会の形勢と内閣の運命[政界観測]」『国民新聞』1920年1月3日
カ「政戦大観」『国民新聞』1921年1月24〜31日、2月4、6〜15、17、19、21、25、
 26日、3月1、4、7、11、12、21〜24日
キ「理想的新政党の樹立」『寸鉄』2-2、1920年2月1日
ク「政党改造の提唱[論説]」『雄弁界』1-1、1920年11月1日
ケ「政戦後記」『国民新聞』1921年4月19〜25日
コ「改造の新機運 [貴族院改造問題]」『寸鉄』4-1、1922年1月1日
サ「議会を前にして」『国民新聞』1922年1月17〜21、23日
シ「政戦佳境に入る」『国民新聞』1922年2月19〜24、3月2日
ス「第二維新への道[初回掲載の表題は「ゼノア会議と我国」]」『国民新聞』1922年
 4月15〜25、27、30日、5月1、2、9、13、14日[5月1日のみ「夕刊」掲載]
セ「新勢力の勃興と後継内閣[政界革新運動の前途]」『寸鉄』4-8、1922年7月1日
ソ「陰謀は輝く[政治小説]」『平凡』2-2、3、1929年3月1日、4月1日

以下の情報を松田義男氏より追加でいただきました。ありがとうございます。
「国策を誤る外交」『国論』1-1、1915年6月5日
「良外相良内相 帝国外交の刷新を望む[内外両大臣の更迭批判]」『朝鮮公論』6-5、1918
 年5月1日
「対支政策の根本方針 日本国民の大犠牲心を要求す[大日本主義の要素と露支問題及亜
 細亜民族の使命]」『朝鮮公論』6-10、1918年10月1日
「媾和に み我が国民に警告す」『朝鮮公論』7-8、1919年8月1日
「戦後の欧州と過激思想」『朝鮮公論』7-9、1919年9月1日
「帝国孤立の危機−日米、日支関係の将来−」『朝鮮及満洲』159、1920年9月10日
「無定見なる世界政策と国難」『日華公論』9-2、1922年2月1日<目次のみ確認。京都大
 学文学部図書室所蔵>
「平価切下げに直面する日米の財界」『実業之世界』30-4、1933年4月1日
「新平価の必要[インタビュー]」『経済知識』1933年4月1日
「新内閣に対する財政経済策を注文する座談会」『実業之世界』30-5、1933年5月1日[4月
 11日座談会於晩翠軒]
「一頭地も、二頭地も抜く池田君[日銀新総裁たる可き池田成彬君の人物合評]」『実業之
 世界』-6、1933年6月1日
「必然的に来る米国の平価切下げと日本の対策」『実業之世界』30-10、1933年10月1日
「動かす人秋山定輔を囲む座談会」『日本評論』12-13、1937年12月1日[出席者:小林一
 三、秋田清、下村宏、長島隆二、中野正剛]
「大陸経営の基調について[事変の新展開を前にして]」『中央公論』53-12、1938年12月
1日

さらに以下の情報をいただきました。
「当面の財政及外交問題」『大陸』22、1915年5月1日
「憲政擁護運動の思ひ出」『政界往來』1-1、1930年8月1日
「孫中山先生を懐ふ」『財政』2-1、1937年1月1日

さらにさらに以下の情報をいただきました(2005年7月)。
「対外政策の根本的誤謬」『新小説』21-4、1916年4月1日
「竟に政国の合同か[三派合同観]」『新公論』31-10、1916年10月1日
「世界改造と各国婦人の位置」『婦人画報』164、1919年10月1日
「議会の風雲を前にして」『人間』2-2、1920年2月1日
「政変以上の政変迫る」『中外新論』5-1、1921年1月1日
「進退両難の原内閣」『東方時論』6-5、1921年5月1日
「暴風雨の中に立ちて[時評]」『新文学』16-6〜11、1921年6月1日〜11月1日
「罪悪の根源を一掃せよ」『中外新論』5-7、1921年7月1日
「華府会議に日本方針なし」『中外新論』5-11、1921年11月1日
「暴風雨の中に立ちて[時評]」『文章世界』16-12、1921年12月1日
「時局と普通選挙[時事問題と普通選挙の批判]」『中外新論』6-1、1922年1月1日
時代錯誤の現政府と与党『中外新論』6-4、1922年4月1日


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