ぺー族
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ぺー族は、総人口が1,858,063人(2000年)で、雲南省大理ぺー族自治州に約80%が居住している。自称は「白い人」を意味する「白(ぺー)」である。漢籍史料には、「擺人」「白人」と記載され、「民家(ミンチャ)」と呼ばれた。
ぺー族は、早期に雲南へ南下してきたチベット系の騎馬牧畜民文化と、タイ系の水稲耕作文化の両方を受け入れ、さらに漢文化とも接触して、唐王朝時代の南詔(なんしょう)国や、宋王朝時代の大理国の中核をなした。13世紀になると、大理国はモンゴル帝国軍に滅ぼされ、その支配下に置かれた。明王朝時代には、大量に漢族兵が土着化し、漢族の沐氏一族の支配を受けるなど、漢民族の文化の導入がいっそう進んだといわれている。清王朝までは、大理盆地の大部分の耕地は、官僚の大地主、ぺー族の封建領主、寺院大地主などに占有されていた。日常語はぺー語であるが大多数が漢語を理解する。固有な文字はないが、7〜8世紀頃から漢字を使用し、10世紀頃には日本の万葉仮名のような白文、つまりぺー文字を用いていた。明代
以降の漢化政策により、現在では音曲芸能の台本「大本典」などにわずかに用いられるだけとなっている。各集落には、山神などの自然神や英雄神などを守護神とした「本主(ベンチュ)」と呼ばれる産土神(うぶすな)が祀られ、集落あげての祭りが毎年行われる。この本主は、日本の神社に該当するものであるとされる。唐代に伝来した密教系仏教は観音信仰に特色を持つが、道教・儒教などとともに建築や信仰など各方面に大きな影響を与えたという。また漢族の影響と思われるが、竈・土地神などの神々をあらわした木版画の御札(紙馬 ジーマ)をもち、西南中国では、風俗や習慣などが最も漢族に近い少数民族の一つといわれている。
昆明から大理までは、高速バスで5時間余。周辺を万年雪をいただく4000メートル級の蒼山(ツァンシャン)の19の峰によって囲まれ、南北40キロに伸びた湖・海(アルハイ)沿いに広がる盆地状の土地は海抜約2000メートル。どっしりとした大理古城([資料1]click here!)の城門と城内へとつづく石畳の道は風格ある歴史を感じさせる。古城から19キロ北に行った海のほとりの喜洲鎮は、約千年前の南詔国の重要な拠点のひとつとして栄え、学問に熱心なぺー族の町として優秀な人材を輩出したことで知られる。かつては、遠くインドやミャンマー、上海や香港に支店を構える豊かな大商人も出現したという。その名残が厳家大院([資料2]click here!)を代表とする明、清、民国時代の古民家88軒が当時そのままの姿で保存されている。ぺー族の伝統的な民家は、「三方一照壁」と称
され、白壁と青瓦でできた2階建ての母屋の両側に脇部屋を建て、母屋の正面に目隠し用の照壁を配したもの。より素朴なぺー族の村としては、人口約8000人の周城(ジョウチョン)があげられる。家の中庭で藍染めの絞り染め([資料3]click here!)をしている民家をたずねてみるのも楽しい。


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