図誌に描かれたミャオ族
『清代民族図誌』にみるミャオ族

ミャオ族は、中国西南地区を代表する高原である雲貴高原を中心に分布・居住する典型的な山棲みの少数民族である。
このエスニック集団の分布地域は非常に広範囲に及び、国境をはるかに越えて、タイ・ラオス・ベトナムなどインドシナ半島北部の山岳地帯にまで、展開・拡大している。ミャオ族は、このように広範囲にわたり分布・居住しているが、中国国内だけでも約740万人の人口(1990年)を有している。

ミャオ族の歴史は、古代から度々漢民族の圧迫を強く受け、それに反抗してきたものである。これに対して、明代においては、西南中国の少数民族地帯では、少数民族の首長に官位を与えて、世襲的な首長制を温存させ、間接統治を実施するという土司制度が存在した。さらに、続く清代においても、同様に融和政策を試みたが、ミャオ族に関しては充分にそれが機能しなかった。そこで、清王朝は1666年に、「流官」(地方官)をミャオ族居住地帯に派遣して、土司制度を改めるという「改土帰流」制度を実施し、直接統治を行なうことになった。これに強く反発するミャオ族の一部は団結し、数回にわたる大規模な反乱を清王朝に対して行なった。これらの反乱はいずれもミャオ族側の失敗に帰し、多数のミャオ族が支配者階級からの弾圧を恐れて、インドシナ半島北部の山岳地帯まで南下することになった。 つまり、ミャオ族は支配者階級であった漢民族や満州族にとっては、社会秩序を維持するためにも絶えず弾圧したり、監視すべき対象であった。そのため、ミャオ族は他の少数民族の中でも古くから注目され続け、多くの漢籍史料に記載されることになった。とくに、清代の康煕・乾隆時代には領土も拡大し、政治も安定したため、『皇清職貢図』などの図誌が作製され、少数民族に関する風俗・習慣や固有の生業形態などに関心がもたれ、少数民族の具体的な様子が判明するようになった。

本HPで紹介する李経奉・劉如仲編『清代民族図誌』(青海人民出版社1997年)は、上述した『皇清職貢図』をはじめとする数種類の図誌を原資料として、中国の少数民族の当時の風俗・習慣および生業形態を絵図を用いながら解説した書物である。同書ではほとんどの少数民族を解説しているが、ミャオ族が60枚ともっとも詳しく紹介されている。すなわち、主として女性が着用している衣裳の色彩により、「白ミャオ」族、「青ミャオ」族、「黒ミャオ」族などと分類する他、ミャオ族がとくに集中している県や地区ごとの特色を絵図で解説している点である。水牛を引いている図や、狩猟で捕獲した動物を解体している図などから当時の生業形態の様子、さらにはハタ織りなど主要な産業の実態、あるいは戦いの図など、ミャオ族の生活の姿が生き生きと伝わってくる。

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参考文献



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